天日干ししたヒエを脱穀しました。使った道具は宮崎農機具店製足踏み式ミニ脱穀機、36,666円。こんな感じです。

次に、ふるいでふるって、大きなごみを取り除きます。

そのあとに、唐箕(とうみ)という機械で、比重選別をします。使ったのは、株式会社ホクエツ製の手回し式唐箕で、35,700円でした。

上から入れて、右にあるハンドルを回して風を送ります。すぐ下の一番口に出てくるのは、重くていい粒。となりの二番口に出てくるのは、やや軽い、まあまあの粒。スカスカの粒は、ごみと一緒に左手正面から吹き出してきます。

これが、一番口から出てきた、いい粒です。
黒蒸しヒエのやり方で脱ぷ(殻を取ること)に挑戦してみます。ヒエは、殻が取れにくいので、脱ぷする前に水につけ、蒸して、乾燥させて……という手間をかけなくては、うまくいきません。
まず、籾殻付きのヒエを、水につけます。わたしは、6時間、つけてみました。

次に、せいろで蒸します。「殻が割れてくるまで」などと、本には書かれていますが、1時間30分蒸しても、殻は割れてきませんでした。これ以上やっても何だかなぁ、と思ったので、そこでやめました。

そして、ふきんごと梅干し用のざるの上に広げて、天日で干します。「3日干す」と、本には書かれています。
3日めに雨が降ったので、コンデンス式除湿機を使って、乾燥させました。コンデンス式の除湿機は、温かい風が出るので、きらう人もいますが、作物にダメージを与えるほどの熱さではないですし、わたしがいる北海道のような寒い地域では、低温での除湿力の強さで、コンデンス式除湿機は有利です。
乾燥した殻付きのヒエを、インペラ籾摺り機(ミニダップ)にかけます。

これが籾摺り機です。大竹製作所という会社の製品で、わたしは107,000円で買いました。

これは、殻付きの籾ヒエです。そして

これが、殻を取ったヒエです。
500gの殻付きヒエから275gの殻剥きヒエが取れましたから、歩留まり55%になります。粒の割れは、ほとんどありません。
まれに、殻付きのが混ざっていますが、水で洗うと浮いてくるので、簡単に取り除くことができます。
このヒエを、2.5倍ぐらいの水で炊きます。沸騰したお湯に塩を少々入れて、裏ごしで水切りした洗ったヒエを入れます。もう一度沸騰させてから弱火にして、ふたをして20分ぐらい煮ると……

おいしいヒエご飯のできあがりです。
食感はキャビアのような…あ、わたし、キャビア食べたことなかったでした。シシャモの卵のような感じです。つぶつぶした感じがうれしくなってきます。かみしめると甘みが出てきて、いい味です。
「黒蒸しヒエ」の名前のとおり、黒っぽい色ですね。
(仏紀2551年6月22日)
〔参考書〕
Wikipedia「ヒエ」の項
鏡山悦子『いのちの営み 田畑の営み』(著者直販本)
「つぶつぶ」第9号(いるふぁ)
麦畑で収穫した小麦を使って、うどんをつくって食べるところまでを説明します。
まずは、「はさ」に天日干ししていた小麦を、脱穀するところから。

写真を見て、「あれ? 脚立じゃない?」と思った人、正解です。小麦の脱穀は、脚立でなくてもいいのですが、何か固いものにたたきつけておこないます。
ヒエの脱穀には脱穀機を使いました。脱穀機は、回転する「歯」に穂を当てて、粒をしごき取るしくみです。小麦を脱穀機にかけると、穂の先だけがちぎれ取れて、かえってあとが面倒になります。
小麦を、何か固いものにたたきつけると、穂の中の、一つ一つのもみ殻の中から、小麦の粒が飛び出してきます。つまり、この段階で「脱ぷ」まで終わってしまうのです。わらの先には、穂先の形のままに、もみ殻が、抜け殻のように残ります。
このあと、「ふるい」でこして、大きなごみを取ります。

それから、「とうみ」にかけて、軽いごみを飛ばします。

このへんは、ヒエとおなじです。(写真も、横着して、同じものを使い回ししてます。)
さて、次に製粉に移ります。小麦を食べるには、うどんにするにしても、パンにするにしても、一度、粉にしなければなりません。粉にするのには、石臼を使います。わたしは、電動モーターがついた「石うす一番」という小型の石臼を、83900円で買いました。
中島正さんは『農家が教える自給農業のはじめ方』の中で、粉は粉屋に、脱ぷは米屋に頼むしかないようなことを言っていますが、そのようなことはありません。ミニダップがあれば、コメの脱ぷもできます。わたしが買ったミニダップは、ヒエの脱ぷに活躍しています。そして、石臼とふるいがあれば、粉をひくこともできます。わたしは持っていませんが、油をしぼる機械も売っています。
機械を買ったほうがいいのか、専門家に依頼したほうがいいのかは、状況次第で、どちらがいいとは、簡単には言えないと思います。わたしの場合は、何でも自分でやりたい気持ちが強くて、機械を買ってしまいました。
小麦の製粉をした話ですね。
去年収穫してあった小麦なのですが、一部を種にして畑にまいたときに、お湯につけて種子消毒することをしました。そのときに、種が非常に鮮やかな色(「小麦色」って言うんでしょうか)になったのを思い出しました。逆に言うと、お湯につける前の小麦は、汚れてきたない色をしていた、ということです。「汚れはたべたくない」と考えたわたしは、今回小麦を粉にひく前に、一度粒を水洗いして、干してから使うことにしました。

小麦を粉にするのには、石臼を使います。
これが、石臼です。上のじょうごから小麦の粒を入れます。上下2枚の御影石が重ねてあって、そのすき間に穀物の粒が通っていくことで、上下の石にこすられて、粉になるしくみです。取っ手がついていて、手で回すような石臼もありますが、この機械にはモーターがついていて、上の石が電気の力で回転するようになっています。
試してみたところ、1回通しただけでは、粒が粗く砕けただけで、粉にはなりませんでした。3回繰り返して通したら、ようやく粉のようになりました。
次に、この粉を「ふるい」にかけます。製粉用の「ふるい」は、「番目」という単位で、目のこまかさが分かるようになっています。この石臼には、50番目の「ふるい」が、おまけでついていました。数字が大きいほど、目はこまかくなります。50番目というのは、一般的に使われているステンレス製の「うらごし」と同じぐらいのこまかさです。ですから、「うらごし」で代用することもできます。

下に落ちた、こまかい白い粉が小麦粉で、「ふるい」(「うらごし」)に残った、軽くて大きい粉が「ふすま」です。「ふすま」は、イネで言えば、「ぬか」に相当します。家畜のえさにしたりするものですが、わたしは家畜を飼っていないので、ボカシ肥づくりの材料に使おうと思います。
今回は、560gの小麦の粒から、360gの小麦粉と200gの「ふすま」ができたので、歩留まりは64%ということになります。
小麦粉ができましたので、今度は、これを使って、うどんをつくってみます。
冷凍保存用の、厚手のポリ袋を用意します。この中に、さきほどつくった小麦粉360gと、水170ccと、塩10gを入れて、袋越しにこれをかき混ぜます。ひとかたまりにまとまりましたら、袋の中の空気を抜くようにして、3時間、ねかせます。

時間になりましたら、袋から取り出して、適当な大きさに切り分けます。そして、そのひとかたまりごとに、体重をかけるようにして、こねていきます。みみたぶぐらいのかたさになりましたら、麺棒で薄く広げて、包丁でほそく切って、麺にします。
ここまでできたら、あとは、ふつうの乾麺をゆでて食べるのと同じです。汁を用意しておいて、ゆであげた麺をその汁で食べます。

うどんなんですけど、そばみたいな色をしていますね。麺の舌ざわりも、こころなしか、荒い感じがしないではありません。これは、小麦粉をつくるときに、70番目ぐらいの、目のこまかい「ふるい」を使うと、「ふすま」をよりよく取り除くことができるので、改善できるのではないかと思います。でも、このうどんのままでも、「素朴な趣きがあっていい」と考えるならば、悪くないのかもしれません。要は、気の持ちようですね。
以上、うどんをつくるときの水や塩の量や、ねかせておく時間などは、冬用の基準です。これらは季節によって変動しますので、注意してください。くわしいことは、『改訂版 絵を見て作れる 北国の手作り食品』(財団法人北海道農業改良普及協会)をごらんください。この本、さまざまな手づくり食品のつくり方がていねいに解説されていて、一家に一冊必需品!って感じがするほど、すばらしいです。
(仏紀2552年2月10日)
世界三大穀物といえば、小麦、米、そしてトウモロコシです。トウモロコシは、メキシコなどの中米では、「トルティーヤ」と呼ばれる薄焼きパンとして、食べられています。
今年は、何種類かトウモロコシを栽培しましたが、保存性のよさでは、「黄八行うるちきびロングフェロー」が有望でした(「もちきび」は、乾く前に腐りました)。この「黄八行うるちきびロングフェロー」を使って、「トルティーヤ」をつくってみました。

これが、八行うるちきびの粒です。
本物のトルティーヤは、トウモロコシの粒を石灰を溶かした水で煮たりするのですが、そのへんは省略して、いきなり石臼でひいて、ふるいでふるいました。
小麦粉と半はんで混ぜて、水で練って、油をひいたフライパンで焼きました。小麦粉は、自家製が間に合わなかったので、江別製粉の国産小麦粉を使いました。
初めて焼いたトルティーヤは、こんな感じです。じゃん。

トルティーヤというよりは、お好み焼きっぽいですけど。トウモロコシの甘みが、ほんのり感じられて、なかなかいい味です。
結論。八行うるちきびは、おいしく粉食できます。ですので、来年も栽培します。
おまけ。小麦粉と八行うるちきびの粉を4対1で混ぜて、ホームベーカリーでパンを焼いてみました。

形は悪いですけど、まあまあいけます。
(仏紀2552年11月12日)
アンデスの高地でつくられている「チューニョ(乾燥ジャガイモ)」という食品があります。これをつくってみようと思い立って、やってみました。やりやすいように、ちょっとアレンジしてあります。
まず、ジャガイモの皮をむいて、冷凍庫で一晩、冷凍します。翌日、水にさらして、解凍します。日中は、そのまま水にさらしておきます。

さらした水には、ジャガイモの「あく」がしみ出て、赤茶色になります。この冷凍-解凍を4日間、繰り返します。4日目には、もう「あく」は、ほとんど出てこなくなります。
それからこのふにゃふにゃになった芋を、洗濯ネットに入れて、ソメラの高速脱水機にかけて、脱水します。ちなみにアンデスでは、足で踏んで脱水させるそうです。
で、そのあとは、「エアドライII」という、ファンで風を当てて食品を乾燥させる乾燥機にかけて、乾燥させれば、できあがりです。

これが、できあがった乾燥ジャガイモです。6時間ぐらい風を当てておくと、カチンカチンに固まります。平べったくつぶれた、白っぽく乾いた粘土のかたまりみたいです。これを見せて、ジャガイモだと分かる人は、少ないと思います。何年でも保存がききそうな雰囲気です。
さっそくですが、水で戻して、煮付けて食べてみましょう。

丸みのある、元の芋の形に戻りました。形状記憶芋のようです。黒っぽいのは、しょう油の色もありますが、煮戻すと、黒っぽくなる性質があるみたいです。
味は、生のジャガイモの煮付けから、ジャガイモの香りを抜いたような、くせのない、素朴な味です。たとえば豚肉みたいな、脂気のある動物質の食材と組み合わせて料理すると、よりおいしくなりそうです。
冷凍-解凍の過程なしで、生のままのジャガイモを、乾燥・保存させることはできないでしょうか。試してみました。
千切りスライサーで、ジャガイモを千切りにします。ざるにとって、大きな鍋の中で水にさらします。このさらした水の中には、デンプンが溶けていますから、捨てないで、とっておいてください。
水にさらしたジャガイモは、洗濯ネットに入れて、ソメラの高速脱水機にかけて、脱水します。そして、ネットのまま乾燥機「エアドライII」に入れて、乾燥させます。半日ほど乾燥させると、パリパリの乾燥ジャガイモになります。

「こうなご」と切り干し大根の中間みたいな、一風変わったものができます。
水で戻して、油で炒めて、きんぴらにしたり、水で戻して、ゆでて、ドレッシングかマヨネーズであえて、サラダにしたりして、食べます。
千切り状のジャガイモが、煮てあるの煮くずれないでいる、というのは、意外な感じがします。

ところで、最初にジャガイモを水にさらしたときに、さらした鍋の水をとっておいてくださいと言いましたが、あの水から、デンプンをとり出してみましょう。
ジャガイモをさらした水は、しばらくおいておくと、デンプンが沈殿してきます。上水は、「あく」を含んでいますので、静かに流して捨てます。ざるの目をすり抜けた細かい「かす」が気になるようでしたら、目の細かい茶こしでこしとると、いいです。
で、「もう一度水を入れて、沈殿したら上水を捨てる」を、3回繰り返します。そして、最後はそのまま自然に乾燥させれば、ジャガイモデンプンのできあがりです。
デンプンは、栄養成分的には、炭水化物のかたまりみたいなものです。

デンプンの簡単な使い方としては、水に溶いて、スープに混ぜて、とろみ付けに使うというのがあります。今回は、もうちょっと手を加えて、カボチャの団子汁をつくってみました。
まず、カボチャをゆでて、マッシャーでつぶします。冷めたら、デンプンと上新粉(米の粉)を混ぜて、こねてちぎって丸めて団子をつくって、お湯でゆでます。別にスープをつくっておいて、そこにゆで上がったカボチャ団子を入れて、できあがりです。
この団子は、煮くずれしないので、重宝します。黒蜜をかけたり、きな粉をまぶしたりして、甘くして食べても、おいしいです。
(仏紀2553年1月12日)
今年収穫したアズキをどう食べましょうか。ありがちなのは、「あんこ系」ですね。お汁粉とか、ぜんざいとか。あれ? お汁粉とぜんざいって、どう違うんでしたっけ?
まあ、甘いものも、たまにはいいですけど、そうしばしば食べるものでもないので、日常的に食べられる食べ方ということで、「主食系」で、かつ、甘くもしょっぱくもしないものを考えてみました。
まずは、こちらです。

はい、アズキご飯です。基本中の基本ですね。
アズキは、水で戻さなくても、すぐに茹でることができます。ただし、最初に軽く茹でた汁は、捨ててください。これ、「しぶきり」といいます。そして、そのあと、30分ぐらい茹でます。アズキご飯用のアズキは、「少しかたいかな?」と思えるぐらいでいいです。その茹でたアズキを、炊飯器でご飯を炊くときに混ぜるだけで、アズキご飯は、できあがりです。
続きましては、こちら。

アズキ入りの食パンです。
先ほど、アズキご飯のときに茹でたアズキを、もう少し柔らかくなるまで茹で続けます。そして、ホームベーカリーで食パンを焼くときに、レーズンパンを焼くときにレーズンを入れるポケットに、茹でたアズキを入れます。あとは、機械任せで、アズキ入り食パンができます。
ご飯、パン、ときたら、次はこちら。

アズキもちです。野菜スープに入れて、お雑煮にしてみました。
アズキパンを焼いたときと同じように、柔らかくなるまで茹でたアズキを、全自動もちつき器でおもちをつくるときの、ぎりぎり最後あたりで、バッとぶち込んで、すぐふたを閉めます。
アズキに続きまして、今度は、大豆を食べてみましょう。大豆は、納豆にも、豆もやしにもなりますし、みそを仕込んでもおいしいのですが、今回は、もっと手早くできるものをご紹介します。こちらです。

大豆とひじきの煮物です。
「量…目分量、時間…適当、手に入りやすい素材で、簡単料理」の、はじまりはじまりです。なお、今回は、「スズマル大豆」という、小粒の品種の大豆を使っています。
まず、大豆を半日から一日水につけて、「戻し」ます。「ふやかす」わけですね。北海道の言葉では、「うるかす」といいます。水を吸って、十分にふくらみましたら、そのご、1時間から1時間半ぐらい、ほどよい柔らかさになるまで、茹でます。そして、水で戻した干しひじきと、刻んだにんじん、油揚げ、ちくわといっしょに、めんつゆ味(だし汁+しょう油+みりん)で煮て、味をしみ込ませれば、できあがりです。
ひじきも、にんじんも、油揚げも、ちくわも、どれも、ありふれた素材なんですけど、この組み合わせで集まると、がぜん、輝くような美味になります。この、大豆とひじきの煮物がかもしだす、えも言われぬなつかしさは、何なんでしょうか。ああ、これ、小学校の給食でよく食べた味なんですね。給食では、これに食パンかコッペパンが付いていましたが、ご飯のほうが合うのは、言うまでもありません。
大豆は、アズキでアズキご飯用を炊いたように、大豆ご飯にすることができます。こんな感じです。

そのさい、水戻しや下ゆでをしないでも、すぐに炊き込む方法があります。それは、フライパンで大豆をから煎りするのです。ほんのり軽く色がつくぐらいに煎ってから炊き込むと、豆の皮にひびが入って、手早く火がとおるようになります。こうすると、豆の香ばしさも加わって、おいしく食べることができます。お試しあれ。
次に、白花豆とほうれん草のオーブン焼き、いってみましょうか。

つくり方です。白花豆は、水で戻して、一度アズキのときのように「しぶきり」をして、さらにまた、柔らかくなるまで茹でます。ほうれん草は、茹でて、食べやすい大きさに切っておきます。タマネギとネギを切って、オリーブ油で炒めます。そこに茹でトマトをつぶし入れます。塩と砂糖で味をつけます。そこに白花豆とほうれん草を混ぜて、耐熱容器に盛って、ピザ・トースト用に売られている「ナチュラルチーズ」をトッピングしてから、焼いてみました。
わたしは、お医者さんに、健康のためにチーズは控えなさい、と言われていますが、チーズはうまいです。「たまに」ならば、いいのではないでしょうか。
手亡(てぼう)豆のスープ

手亡という、白い小粒の豆なんですけど、あんまり食べられていないみたいですね。白あんに加工されることが多いのでしょうか。味のいい豆なので、料理に使わないのは、もったいないです。
では、つくり方です。水戻し、しぶきり、柔らかくなるまで茹でるところまでは、白花豆といっしょです。タマネギと、みじん切りにしたニンニクを、オリーブ油で炒めます。そこに、つぶした茹でトマトを入れて、塩とリンゴ酢と砂糖で味をつけます。これを、茹でた手亡と混ぜて、じっくりぐつぐつ煮て、味をなじませれば、できあがりです。
豆料理、味は、おこのみで、いろいろ工夫してみてください。
わたしは、お医者さんに、「健康のために、油は控えるように」と注意されているので、あっさりした感じにして、食べています。おまけに、「乳製品も控えるように」とも言われているので、パンを焼くときのバターをのぞけば、チーズやヨーグルトも、料理に使わないようにしています。香辛料や香草類も、あんまり使いません。使うのは、ニンニクとショウガぐらいです。概して辛いものが苦手、という事情もありますし、自給できないものは食べたくない、という心情もあります。食事制限のない方は、もっと料理のバリエーションが広げられることでしょう。おいしく料理して、いっぱい豆を食べてください。
レシピというほどのものもないものですが、写真をいくつか追加しておきます。

水で戻して、しぶきりをして、砂糖で味つけして、煮込んだ白花豆です。甘さは、おこのみで、濃くも薄くもできます。おやつにいいのではないでしょうか。

手亡豆ご飯。見た目も、きれいです。

いろいろ豆ご飯。虎豆、貝豆、くらかけ大豆、紅花豆なんかも入ってます。
「簡単豆料理」、続けます。
お汁粉とぜんざいの違いが、いまだに分かりません。粒あんとこしあんの違い? 餅が入っているか入っていないかの違い? 関東と関西でも違う? あ〜、もう分かりません。
小豆の煮方は、一度「しぶきり」をすることがポイント。あとは、砂糖で煮るだけです。砂糖は、うちでは、北海道産の甜菜糖(てんさいとう)を使っています。
珍しくもないですが、一応、写真を撮ったので、載せておきます。全自動餅つき器(象印)でつきたての餅なので、不定形です。

次は、くらかけ大豆入りのカレーライスです。くらかけ大豆は、水洗いして、フライパンでから煎りしてから、煮てみました。豆の種類が違うからでしょうか、スズマル大豆で豆ご飯を炊いたときのようにふっくらとは煮えませんでしたが、香ばしさはあって、少し歯ごたえがあるのも、悪くないです(負け惜しみ?)。
「大豆は、畑の肉」なんて言われますから、大豆を入れたら、肉は入れなくてもいいと思います。あとは、ふつうにカレーライスをつくるように、つくればいいのです。カレーづくりに、妙にこったりはしません。ちなみに、うちは、「グリコ2段熟カレー甘口」を使っています。くどくない味がすきです。

ところで、このカレーライスのご飯には、ヒエとイナキビとモロコシ(タカキビ)が入っています。どれも、自分の畑でとれたものです。ニンジンもジャガイモも、自分の畑でとれたものです。タマネギは、自分で栽培したものも、ちょっと前まではあったのですが、切らしてしまったので、買ってきました。お米は、いただきもの(農家の自家消費米)です。
次は、スズマル大豆と豚肉の煮豆です。
水で戻したスズマル大豆を、やわらかくなるまで煮ます。それとは別に、豚肉とタマネギとシイタケを、フライパンで炒めておきます。これらの2つを合流させて、しょう油とみりんとおろし生姜で味をつけて、煮込めば、できあがりです。

それぞれの素材からたっぷりだしが出て、おいしくできあがります。
次は、黒豆の炊き込みご飯です。おお、具だくさんですね。

ゆでた黒豆、にんじん、油揚げ、ちくわ、しょう油、なんかを入れて、炊いたご飯です。
ちなみに、うちは、炊飯器も象印です。わたしは、名前に「ぞう」がつくので、なんとなく、親しみを感じています。
きょうの最後は、「キクイモ入り手亡豆の呉汁」です。

本当は、手亡豆で豆サラダをつくろうかと思っていたのですが、長く煮すぎて、豆が崩れてしまったので、急きょ、呉汁にしました。わたしは、四字熟語では、「臨機応変」というのがすきです。
呉汁って、分かりますよね? 早い話が、つぶした豆が入ったみそ汁です。
結論から言うと、キクイモがふやけて、気持ち悪かったです。一度油で炒めて、そのぶん煮る時間は短くして、キクイモが持っているレンコンのような「サクサク感」が残るようにすればよかったと、猿のように反省しました。味つけも、にんじん、油揚げ、こんにゃく、ねぎ、唐辛子なんかも入れて、豚肉の入っていない豚汁のような、パンチのきいた味にすればよかったと、犬のように反省しました。
じつを言うと、わたしは、「試行錯誤」という四字熟語も、すきです。失敗は成功のもと!です。
「簡単豆料理」、さらに続きます。
さきほど、煮崩した手亡を、急きょ呉汁にして、証拠隠滅をはかりましたが、ふたたび挑戦。今回は、きれいに煮えました。手亡は、水戻ししないで、小豆みたいに、いきなり煮はじめたほうがいいみたいです。
で、手亡豆のサラダです。レタスと、煮た手亡を皿に盛って、ドレッシングをかけただけです。ドレッシングは、今回は、市販の「あおじそノンオイル」を使いました。

簡単すぎて、料理とは呼べないかもしれませんが、うまけりゃ、なんでもありです。
もうひとつ、つくりました。スズマル大豆のふりかけです。

水で戻したスズマル大豆を、まな板の上で、包丁で刻みます。包丁の刃先のほうの背に手を当てて、刃の元のほうで、大きい粒に狙いをつけるようにして、刻みます。フードプロセッサがあれば、それでガーーッとやってもいいです。
フライパンにエゴマ油を薄くひいて、少量の塩と一緒に炒めます。よく火がとおったら、少量の砂糖を入れてかきまぜて、味がなじんだら、できあがりです。
エゴマ油って、αリノレン酸が多いので、「畑の魚」なんて呼ばれていますが、大豆を炒めると、なんとなく魚っぽいにおいがするように思えるのは、気のせいでしょうか。このにおい、わたしはすきです。
エゴマ油は、加熱すると酸化しやすいと言われますが、中火で炒め物をするぐらいならば、どうということはありません。
このふりかけ、単純ですけど、おいしいです。こりたい人は、ごまを加えたり、かつお節を加えたり、刻みのりを加えたり、どうぞ気がすむまで、こってください。
(仏紀2552年12月20日)
来年(2008年)から、イネの栽培をはじめようと考えています。元水田のすぐ近くまで用水が来ています。この用水をさかのぼって、源流を訪ねてみました。(写真撮影=仏紀2550年11月3日)
この写真の流れが、用水の源流です。北海道が管理する菊丘林道沿いにある流れです。取水口にある石を動かして、水量を調整します。
この用水は、ほかの人の畑を通ってきますが、わたしが使わせてもらう水田専用の水路になっています。水争いの心配はありませんし、源流が枯れない限り、水不足の心配もありません。
ちなみに、水田からあふれた水や生活廃水は、お隣の人が所有する森に流れていっています。下水に関しては、かなりアバウトです。本格的に住みつくようになったら、浄水槽を作らないといけないですね。
写真の地点から上流は、立ち入り禁止になっています。山菜やきのこを取りに来て遭難する人がいるからです。
下流は深川市と旭川市の境を流れる内大部川につながっています。釣り人たちがよく訪れています。
菊丘という地名は、ジョチュウギクの栽培が盛んだったことに由来しますが、この名がつく以前は、川と同じ内大部が地名でした。これはアイヌ語のナイタイペ(沢の頭がずっと奥に行っている)から来ているという説があります。
現在では、エキノコックスを用心して、川の水を飲むことはしませんが、昔は当たり前のように飲んでいたそうです。もちろん、水田の用水として使うぶんには、何の問題もありません。
補記:諸般の事情で、結局、この水田跡地で稲を作ることはありませんでした。

「コラム」というのとは違うような気がするのですが、去年、会員頒布に使った豆の写真が、われながらよく撮れているので、ここに載せておきます。頒布した先のお客さんたちからも、「宝石みたい」と、豆の美しさに感嘆する声が聞かれました。食べる以上に、見て楽しむ効果が大きいようです。これは、美しくしていると、人間が栽培してくれて、いい環境で増えることができる、という、豆と人間の共生関係なのでしょうか。
くらかけ大豆

うずら豆
黒豆
モロッコ豆
貝豆
手亡
スズマル大豆
大納言小豆
紅絞り菜豆
パンダ豆
虎豆
白花豆
紅花豆


クライブ・ポンティング『緑の世界史(上)(下)』(石弘之ほか訳、朝日新聞社)
ふとしたきっかけで読んだ本ですが、上下巻2冊を読み終わって、打ちのめされるような感慨を覚えました。この本は、人間が自然を壊してきたことと、その結果として受けなければならなかった報いとを、教えてくれます。
この本は、一つ一つ事実を積み重ねていくように書かれています。そして、それらの事実の積み重なりから、わたしたち人間の愚かさが浮かびあがってきます。決して、あおるような書き方は、していません。ポンティングさんは、じっくりていねいに、事実に語らせていきます。
わたしたち人間が、歴史の中で、間違った世界に踏み込むきっかけになる、決定的な「事件」があります。それは、農業(と牧畜)をはじめてしまったことです。作物栽培をはじめてしまったことです。この「事件」をきっかけに、わたしたち人間は、戻ることのむずかしい、破滅への道を歩みはじめます。わたしは、この本を、農業に関わっている、または農業について考えている、すべての人に読んでほしいと思います。
この本には、分かりにくい箇所が、まったくありません。本質に切り込むような、衝撃的なことが書かれているのに、読んで100%理解できる、というのは、すごいことです。こういう本を教科書にして、学校が中学生や高校生に教育をしてくれると、ものを考える国民が育って、日本も、もっといい国になるだろうになあ、と思います。
ただ、わたしたちが直面している問題に対する答えも、この本の中にすぐに見つかるかというと、そのようなことは、ありません。ヒントは、満載されています。それらのヒントを、直面する現実に当てはめて、答えは、わたしたち一人一人が探さなくてはなりません。
この本は、17年前に書かれた本なので、新しいデータは載っていません。そのへんは、自分で調べなおさないといけません。しかし逆に、17年前の時点で、こんにち読んでも、大切と思われる論点をはずさない書き方ができている、という意味で、この本は、執筆された時代の流行を超えた、古典的な価値を有する内容を持っている、と言えると思います。
以下、章の順を追って、感想を述べていきましょう。
第1章「イースター島の教訓」
絶海の孤島、イースター島に、はじめてヨーロッパ人が来たとき、3000人ほどの島民は、草ぶきの小屋や洞くつで暮らし、乏しい食料を奪い合って、戦闘を繰り返していたそうです。その一方で、島には、平均して6mを超える、数十トンの重さの巨大な石像が600体以上散在していました。「モアイ像」と呼ばれる石像です。これらの巨大石像群がどのようにつくられ、どのように運ばれたかは、島民の惨めな生活状況からは、想像できないものでした。
じつは、イースター島には、高度な文明があったのですが、森林を完全に切りつくしてしまったのが原因で、その文明が崩壊したのでした。木は、家の建築材料であり、調理の燃料であり、海に漁に出るための船を建造する材料であり、特にイースター島の人たちにとっては、巨大石像を運ぶときの「ころ」として利用されてきました。森林を切りつくしたことにより、土壌流出がはじまって、農産物の収量が落ちて、人口を支えきれなくなったのです。
森林の存在が、文明を支えていたにもかかわらず、イースター島の島民は、その大切な森林を切りつくしてしまって、みずから、文明を崩壊させてしまったのでした。この、自然・天然の資源を「使いつくす」ということは、人類が、現代に至るまで、繰り返し、おこなってきたことです。現代のわたしたちも、「使いつくし」に加担しているわけで、文明崩壊のただ中にいる、と言ってもいいのです。人間というのは、文明が一度ある方向に動きだすと、その先に崩壊の危機があると分かっていても、やめられない、とまらない、かっぱえびせんみたいなことになるようです。イースター島の教訓は、生かされていないのです。
第2章「歴史の礎」
この章は、生態系についての基本的な考え方を扱っています。大陸移動のこと、気候変動を規定する太陽と地球の位置関係にもとづく3つの長周期のこと、食物連鎖のこと、などが取りあげられています。基本中の基本のような知識なので、きちんとおさえておくといいと思います。
第3章「人類史の九九パーセント」
人類の発生から現代までの歴史を人類史として、時間軸に照らして、全体を100%とすると、はじまりから99.5%ぐらいまでと、現代に近い、最後の0.5%とは、はっきりと違う性質を持っています。前者は、生活様式が狩猟・採集が中心で、200万年ほどの間、比較的安定して営まれていたのに対して、後者は、農業や牧畜を中心にしたもので、最近の1万年ほどの間によく見られる現象です。
この章は、農業がはじまる前の、狩猟・採集で生活していた人類を扱っています。マーシャル・サーリンズさんの『石器時代の経済学』にも出てきますが、総じて言えば、狩猟・採集で生きていたころの人類の労働時間は、とても短く、それでいて栄養も十分足りていて、世界の総人口も、400万人を超えることはなかったであろう、ということです。人類は、けっこうこぢんまりと、つつましく生きてきたわけです。
狩猟では、多くの動物の種が、人類による狩猟によって絶滅されてきました。第1章で扱った、イースター島での、木の切りつくしのように、利用しやすい動物をとりつくしてしまう、ということが起こりました。それでも、まだ人類は、総人口がそんなに多くありませんでしたから、人間のがわからすれば、別の地域へ移動すればよいというだけの話で、地球規模での危機は、訪れませんでした。
このようにして、約200万年前に南アフリカや東アフリカに発生した人類は、約1万年前までに、南極以外のすべての大陸に、分布を広げていったのでした。
第4章「最初の大転換」
約1万年前に、人類に「最初の大転換」が訪れます。農業や牧畜がはじめられるようになったのです。この章のはじめの段落が、総論的にまとまっているので、引用します。
二〇〇万年このかた、人類は狩猟と採集の生活を送り続けてきた。しかし、わずか数千年の間に、以前とは劇的に異なる生活様式が出現した。すなわち、作物を栽培し家畜の放牧をして自然生態系を大きく変えることになった。この集約的な食糧生産方法は、核となる世界の三ヵ所の地域――西南アジア、中国、中央アメリカ――でそれぞれ独立に発達し、人類史上もっとも画期的な転換期となった。この結果、従来に比べてはるかに大量の食糧の供給が可能になり、階級制を持つ複雑な定住社会が発展して人口も急増していった。
簡単にまとめると、「定住」「人口増」「農業・牧畜」がはじまって、「都市」「軍隊」「王権」「強権・抑圧的な宗教」が形成されてくるわけです。この、約1万年前という、だいたいこの時期に、人類に大きな変化が起きていて、そのころに形成された社会の原形が、現代にまで引き継がれているわけです。個別には、地域によって、いろいろ違いがあるのですが、おおざっぱに言うと、そう言えるわけです。何が根本的な原因でそうなったのかは、分かりませんが。
わたし個人のこのみとしては、都市なし、軍隊なし、王権なし、強権・抑圧的な宗教なしで、定住はするけれど、ほどほどの農業で、ほどほどの人口で、こぢんまりと生きていく路線、というのがいいのですが、一度農業をはじめてしまうと、「ほどほどで」というわけにはいかないのが人間というものです。こっちは「ほどほど」でよくても、おとなりが強くなれば、干渉されて、気がついたときには、飲み込まれて(征服されて)しまっていたりするわけです。
この問題を、わたし自身の生き方に引き付けて考えると、中島正さんが言っている「みの虫革命」みたいな、他者との関係をなるべく断ち切って、やれる人から、自分一人から、とにかく自給をはじめましまう、という方法論に、わたしは魅力を感じますが、仮にそれがうまくやれたとしても、一人で勝手にやっている限りは、自己満足に過ぎなくて、社会的な意味は薄いのではないのか、とも思います。連帯して行動することが苦手な、分断された個人が多くなった時代に適応した、抵抗する生き方の形なのかもしれません。いや、もしかしたら、個人レベルまで、とことん分断を進めさせよう、という(よい意味での)戦略なのかもしれません。飲み込まれないための、時代に適合した方法論が必要なのです。
第5章「破壊と生存」
農業によって都市が形成されるようになるのですが、それらの古代都市も、遠からず、崩壊の危機を迎えることになります。つまり、一般的な農業は、持続可能な食料生産の技術ではなかったのです。森林破壊と、畑の塩類集積という、2つの基本的な崩壊パターンがありますが、少し、この章で展開される各地の個別の文明崩壊の様子をなぞってみましょう。
メソポタミア文明を支えたチグリス、ユーフラテスの両河の水位は、畑の作物が一番水を必要とする8月から10月にかけて、逆に最低になりました。そこで、人びとは貯水と潅がいをおこないました。この結果、地下水の水位が上昇して、水がよどむ「帯水現象」を起こしました。また、高地の森林が破壊されて、土砂が川に流入して、水のよどみは一層ひどくなりました。帯水現象は、地中の塩類を地表に運び、水分の蒸発によって、厚い塩類の層を形成します。作物の収穫は、紀元前2400年から1700年の700年間に65%低下したそうです。当時の記録には、「大地が白くなった」という記述があるそうです。この畑の塩類集積が、メソポタミア文明崩壊の原因となったのでした。
インダス川は、広い地域にわたって氾濫して、その流路をかえる性質を持っていました。人びとは収量を増大させるために、流路を固定して、潅がいをする工事をしました。また、森林破壊もおこなわれ、メソポタミア文明と同じような環境悪化をもたらしました。インダス川流域も、メソポタミア文明と同じように、塩類集積と、森林破壊による土壌流出と地力の低下によって、国力を弱めて、滅びました。
中国では、最初の定住社会が勃興したとき、土壌は肥沃だったのですが、地表をおおっていた草を、キビ畑をつくるためにとりのぞくと、土壌浸食がはじまり、大きな溝や谷に発達しました。それと同時に、燃料や建材の目的に樹木が伐採され、中国の高原地帯における大規模な森林は消失し、黄河は、ひんぱんに氾濫して、流路をかえ、大きな災害を引き起こすようになりました。
中世エチオピアのキリスト教王国では、森林破壊による土壌浸食によって、植物が育たなくなり、何度も首都を移しています。
地中海地域の本来の植生は、常緑樹と落葉樹が入り交じった森林でしたが、農地造成、調理や暖房の燃料、家や船の建材として伐採され、さらに家畜の過放牧が追い討ちをかけました。紀元前2000年ごろまで、モロッコからアフガニスタンまでをおおっていた森林は、現在ではその10%程度しか残っていないそうです。
ギリシャも、森林破壊と、土壌浸食が起きています。強い根を持っていて、土壌浸食の激しいところでも成育可能なオリーブを植えることが奨励されました。
北アフリカ帝国は、ローマ帝国を支えた穀倉地帯でしたが、農地を拡大するために森林を破戒したことにより、土壌浸食がはじまり、最後は砂漠になってしまいました。
高度な文明を発達させたマヤ文明の崩壊も、森林破壊による土壌浸食と過剰潅がいが原因だったのではないかと推測されています。
ナイル川は毎年洪水を起こしていました。上流の高地で森林破壊によって土壌浸食が起こり、この泥土が、ナイル川の氾濫とともに下流に運ばれ、流域は、ちょうどいい時期に、肥沃な土壌と適当な水が得られることになって、農業が栄えました。メソポタミアの場合のような塩類集積は起こらなかったのですが、氾濫は自然まかせなため、水位が低い年は、十分な面積での栽培ができませんでした。1840年代に人工的な潅がい施設がつくられると、20〜30年のうちに、塩類集積がはじまりました。イギリス人の農業技師は、「地表をおおう白い塩が日に照らされて、新雪のように輝いている」と言ったそうです。20西紀に入って、アスワンダムとアスワンハイダムがつくられると、ナイル渓谷の地力が失われて、肥料を多投する現代の農業方式に移行せざるを得なくなったのだそうです。
森林を開拓して畑を造成することも、潅がいをして収量をあげることも、実施した初期には、効果をあげたのだと思います。しかし、そのような無理をして収量をあげようとすることが、数十年後、数百年後に、決定的なダメージとなってはねかえってくることを、予想することができなかったか、短期的な利益しか考えられなかったかして、結果として、諸文明は滅んでいきました。
肥料と水を与え続ければ、作物に吸収されない成分が地表にたまり続けるのは、当たり前のことです。わたしが研修させてもらった稲作農家では、稲の苗床(ハウス)の跡に、大豆を植えて、実がなった時点で根っこごと抜いて、トラックに積んで、山に捨てていました。一かかえもらって帰って、枝豆にして食べたのを覚えています。自分ちの山に捨てるのなら、不法投棄にはならないのですかね。過剰に施肥しておいて、あとからクリーニング・クロップに吸いとらせて、抜いて山に捨てて……無駄というか何というか、ほんとにほんとにご苦労さんな話です。
第6章「長い戦い」
この章は、飢餓との戦いについての研究になっています。中国とヨーロッパでは、飢餓の存在が常態化していたことが示されています。アイルランドのような、ヨーロッパの「先進」地域でも、19西紀になっても、100万人の餓死者が出る事態が起こっています。当時、アイルランドには、十分な食料があったにもかかわらず、食料価格が高騰して、貧しい人びとがおおぜい餓死したのです。
また、1930年代初頭のソビエト連邦では、政府は食料を都市に優先的に供給して、農村で餓死者が出る事態となったこともあげています。藤田弘夫さんが、その著書『都市の論理 権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書)の中で「古今東西、農村に飢えはつきものだが、都市が飢えることはめったにない。自らは食糧の生産を行わない都市のほうが、農村よりも飢えないのである。」と言っていたのを、思い出します。戦争中、日本では、農家は、食料を強制的に供出させられました。どこかに隠していないか、きびしく調べられました。
この『緑の世界史』の著者のポンティングさんは、農耕民の社会を狩猟採集民の社会と比べて、次のように言っています。
突き詰めて考えれば、飢餓の原因は人類と食糧との関わり方が農耕の開始によって変化したことにある。かつての狩猟採集民にとって、食糧とは取引するものではなく、集団の中で分け合うものだった。だが、定住農耕社会が成立すると、土地や食糧に対する所有権という考え方が生まれた。また、限られた土地に対する依存度が高まったために、収穫の多寡が大きな意味を持つようになり、不作の年には貧しい人々は食糧を得ることができなくなった。
飢餓というのは、多くの場合、食料の不足の問題ではなく、食料の配分の問題なのです。
第7章「ヨーロッパの植民地の拡大」
中世のヨーロッパには、東方植民といって、ヨーロッパ西部・中部への居住地の拡大があります。もともと95%ぐらいが森林だったところが、この東方植民によって、森林面積が20%ぐらいまでに減らされてしまいます。焼き畑農業もおこなわれています。この開拓には、修道士が活躍します。修道士という言葉から、わたしなどは、禁欲的な生活をして、静かに神に祈っている人たちのようなイメージを勝手にいだいてしまいがちなのですが、十字軍時代に騎士修道会というのがあったように、この開拓にあたった修道士たちは、武装していました。それから、金属精錬なんかの技術も持っていたらしいです。とにかく、強烈な人たちだったようです。岸田秀さんとの対談(『生きる幻想 死ぬ幻想』)で小滝透さんが、この修道士たちについて、「森林伐採には宗教的な意味もありまして、森を残しておくと、土着的な精霊信仰が生き残って、異端や異教が生まれるので、キリスト教を広めるという意味でも、森林を伐採した。」と言っています。宗教的情熱に駆られて、執念で森林を切り開いていくわけです。その結果、フクロウとか蛇とかがいなくなって、野ネズミが大発生して、それにペスト菌を持ったノミが寄生して、ペストの大流行を招きます。このことも、小滝さんは語っています。今回読んでいる『緑の世界史』には、フェラリッヒの修道院長の言葉が紹介されていて、当事者の心境を伝えています。曰く、「フェラリッヒ周辺の森林は、まったく役立たずなうえ耐えがたいほど有害ですらある」。
森林伐採のほかに、大きく自然をかえたのは、イギリス・フランス・オランダなどでおこなわれた、湿地や沼沢地の干拓や埋め立てでした。
ヨーロッパ人による植民地化の波は、世界中に広がっていきます。ポンティングさんは、ヨーロッパ人が破壊した先住民族社会をあげ連ねています。ヨーロッパ人は、アステカ帝国、インカ帝国、北アメリカのインディアン、南アメリカのインディオ、オーストラリアのアボリジニ、太平洋の島じまの先住民などの、土地と労働力を搾取しました。イエズス会は奴隷狩りの遠征を行ない、捕えた奴隷に焼印を押して、伝道所で強制労働をさせました。ニューイングランドでインディアンとの間で戦争がはじまるころ、清教徒たちは、異教徒であるインディアンを殺戮することが、神の意思にかなうことだと信じていました。
そして、忘れてならないのは、徹底的に搾取された大陸、アフリカです。内容は、本書にくわしいので、読んでほしいのですが、一つ、ヨーロッパ人がアフリカ人を人間視していなかった証拠をあげた部分を引用します。
ヨーロッパ人の心の中には、アフリカ人に対するほとんど隠そうともしない侮蔑の念があった。たとえば、一九〇〇年六月にドイツ人入植者の一人が南西アフリカの植民地政府に提出した次のような嘆願書が残っている。
「遠い昔から、現地民たちは怠惰と粗野と愚行に慣らされてきました。彼らは悪に手を染めていなければ安心できないのです。われわれは現地民に交じって生活していますが、ヨーロッパ人の感覚では、どう考えても彼らが人間であると信じることはできません」
第8章「思想の変遷」
この章は、ヨーロッパの思想の中に、植物や人間以外の動物は人間のためにつくられている、という、人間中心的世界観を浮き立たせて、それが大規模な開拓や、動物の殺戮などの自然破壊につながるとこを、明らかにしています。この、「人間中心主義」という、問題の切り出し方が、わたしには新鮮で、分かりやすく思われました。たとえば、アリストテレスについては、ポンティングさんは、次のように言います。
究極的な人間中心的世界観のもうひとつの先駆的著作は、アリストテレスの手によるものだ。彼は『政治学』で、植物は動物のために存在すると主張し、「もし自然が作り上げたものに不完全なものはなく、また何事も無目的には作らないとすれば、自然はすべての動物を人間のために作ったということになるだろう」と結論づけている。
この、人間中心主義は、聖書中にも、見出すことができます。再び、引用します。
神は五日間の天地創造の後、その集大成として人間を創造する。そして神は人間に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と祝福し、他の創造物に君臨する権利を与えるのである。
(中略)
まず初めに男性が創造され、次に生き物の満ちあふれるエデンの園、最後に女性という順で創造されていく。ここでも動物は人間のために作られており、それらに名前をつけるのはアダムである。神は後になって大洪水を起こして世界をほぼ壊滅させるが、その後に人間界で唯一の生存者であるノアとその家族に対して、前にも増して強い口調で世界の支配者になるよう、こう命じている。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える……地のすべての獣と空のすべての鳥は地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」
このような、世界に君臨すべき存在としての人間という主題は、聖書に取り込まれたユダヤ教聖典の中に数多く見出される。たとえば詩篇第八番には、「神に僅かにおとるものとして人を造り、御手によってつくられたものすべて治めるようにその足もとに置かれました」とあり、同第一一五篇には、「天は主のもの、地は人への賜物」と書かれている。
古代や中世のキリスト教思想家は、「人間は自らのために動植物を始めとした全世界を利用する権利を神から授かっている」としてユダヤ教思想より受け継いだ見解に、ほとんど異議を唱えることはなかった。自然は神聖なものとは見なされず、したがって人間は自然を自らのために利用するのにいささかの良心の咎めも感じる必要はなかった。人間は自然を自分の好きなように利用する権利がある、とされていたのである。
この聖書に見られる人間中心的思想の変奏として、トマス・アクイナスやアッシジの聖フランチェスコなどが、あげられています。
このあと、科学的自然観を検討することになりますが、科学的自然観も、人間中心的という意味では、聖書の思想の延長線上にあることになると、著者のポンティングさんによって位置づけられています。例として、デカルトやベーコンやスペンサーやカントやジョン・スチュアート・ミルやフロイトが引用されています。マルクスも、この系列に入ります。
日本人の感覚では、宗教と科学というのは、対立するような印象があるのですが、じつは、聖書の世界観と科学的世界観というのは、しっかり地続きなんだ、ということを、今回この本を読んで、わたしは理解しました。
このあたりの事情をまとめてある部分を、もう一カ所、引用します。
一九世紀末までに、ヨーロッパ思想の多くから宗教色は大幅に減退するか、あるいはまったく消失してしまっていた。しかし、二〇〇〇年間にもわたるキリスト教思想の中核をなした考えの多くは、それに先立つ古典思想やユダヤ思想の影響とともに、ほぼ無意識のうちにヨーロッパの世界観を形成する中に取り込まれていた。そこでは人間は自然界から切り離され、しかもそれより優位に立つ存在と見なされており、その結果、人間は自然界を自らの思うように収奪する権利があると考えられていた。しかも、この自然の収奪はまったく当然のことであり、むしろ未完成で不完全な自然環境を改善していく手段であると見られた。
また、人間活動は有益な結果をもたらし、必然的に未来へと続く一貫した進歩の過程の一部であるとされた。この世界観は、ヨーロッパの拡張の最盛期を支え、ヨーロッパが大成功を収めたために、ヨーロッパ人やその高度の物質文明と接触した人々をも巻き込んでいった。
どうでしょうか。「すべてのものは、人間のためにある」という「人間中心主義」のテーマは、宗教から科学へ、見事に引き継がれています。宗教というのは、無意識のうちに、いろいろな観念を継承させていきます。本質に踏み込んだ批判が必要なゆえんです。
第9章「自然の蹂躙」
この章では、動物を殺しまくってきた、人間の歴史が展開されます。ほんとに、よくもここまで殺しまくったものだと、感心するほどです。要約しても、ちょっとここでは紹介しきれません。本書を読んで、人間の傍若無人ぶりを知ってください。もし人間がいなかったとしたら、地球は今よりもはるかに美しく、はるかに豊かだったろうと思います。
農業に関しても、害虫・害鳥・害獣は殺しつくせ、という考え方が主流でした。農薬が作られるのも、殺しつくしの考え方の延長線上にあるものです。天敵を利用したり、異なる作物を混植したり、といった、自然のバランスで虫を抑える、という発想は、なかなかあらわれませんでした。
第10章「第三世界の成立」
ヨーロッパによる植民地支配についてです。前章の「自然の蹂躙」の対人間版で、ひどい話が続きます。農業に関係あるところでは、それぞれの地域によく適応した伝統的な農業が崩壊させられて、プランテーションで、自然と人間が収奪されることになるあたりがあります。日本は植民地になったことがないと言われますが、これからどうなるかは分からないので、奴隷と強制労働の歴史を勉強して、心の準備をしておくといいのではないでしょうか。
もう一つ、リン肥料の原料であるリン鉱石が枯渇した場合、施肥を大前提にしている今の農業は、どうなってしまうのだろうと、心配になりました。
ここからは、いよいよ下巻に入ります。
第11章「死の変遷」
この章のテーマは、人類と病気の関係です。農業と関係があるのは、住血吸虫です。潅がい用水路に繁殖する巻貝が宿主です。焼畑による森林破壊で増えたのは、マラリアです。森林破壊が原因になったとされる病気には、ヨーロッパに壊滅的なダメージを与えたペストもあります。
死因と社会のあり方を考えることは、人口について考えることにつながります。伝染病を減少させる主要な原因は、栄養と環境の改善だと、ポンティングさんは言っています。そしてこれは、貧富の差によって健康状態が左右される理由にもなるのです。
第12章「人口圧力」
ポンティングさんは、人口が増えたから、食料需要が増えて、それに対応して、農業の機械化・集約化が進められた、近代的な農業が発展してきた、という因果関係で説明していきますが、このへんは、わたしは、異論があります。狩猟採集民の社会では、人口が増えすぎないようになっていました。自然環境との関係の中で、民族文化の中に、人口を調整する仕掛けを持っていたのだと思います。こういう文化が破壊されて、食糧を与えれば与えただけ増える、機械のような存在におとしめられてきたのが、人口増加の主役と言っていい、低開発国の姿だと、わたしは思います。人口増加は、飢餓とセットになってあらわれます。食料の増産と飢餓とによって、人類の人口はコントロールされてきたのだと、わたしは思います。誰がコントロールしてきたか?
食料増産によって利益を得る人たちです。機械・肥料・農薬・多収穫品種の種苗の生産者。ほかにも利益を得る人たちがいます。人口は、労働者であり、消費者であり、兵力です。また、飢餓に苦しむ最下層の人たちは、階層社会を安定的に存続させるためにも、必要とされます。人口増と飢餓は、それが必要とされたので、つくられてきたのだと、わたしは思います。
『緑の世界史』を読む、というより、わたし自身の意見を言いすぎましたが、問題の原因をはっきりさせることは、その問題を解決するのに、どうしても必要なことだと思いますので、このへんは、わたしとしては、こだわりたかったのです。
さて、食料増産のために、自然は食いつぶされてきました。アメリカで、オーストラリアで、アマゾン流域で、ソビエト連邦(当時)で、中国で、アジアの各地で、そして、アフリカで。農地開発が生態系に及ぼした影響を、ポンティングさんは、大きく4つに整理しています。森林伐採、土壌浸食、砂漠化、塩類集積の4つです。
潅がい計画の失敗としてあげられているのは、ソビエト連邦(当時)のアラル海です。潅がいによって、綿花や米を大増産しようとしたのですが、そのためにアラル海が縮小をはじめ、気候が変化して、一帯の自然は破壊され、人が住めなくなり、村は放棄されました。自然のしくみをよく理解していない人が、自然を改造しようとすることの危険さを、アラル海の失敗は、示しています。潅がい計画の影響を予測して、反対した科学者たちは、「自然決定論者」のレッテルを貼られ、マルクス主義に敵対する分子として、きびしく「弾劾」されたらしいです。最近のアラル海の衛星写真が、宇宙航空研究開発機構のホームページで見られます。
第13章「第二の大転換」
農業が、人類の文明の第一の大転換だとすると、第二の大転換は、化石燃料の開発です。最初は石炭がつかわれました。石炭がつかわれるようになった理由は単純で、ヨーロッパでも、中国でも、森林を切りつくしてしまったので、薪炭が不足したからです。
p.104 に、農作物の生産に投入されるエネルギーの話題で、中国や東南アジアの水田稲作は、投入量の50倍の収穫があるとありますが、現在の日本の稲作では、1倍以下になっています。米を食べるということは、昔は、太陽の恵みと、お百姓さんたちの労力を食べることだったのですが、今では、石油エネルギーを食べることと同じことになっているのです(松尾嘉郎・奥薗壽子『絵とき 地球環境を土からみると』(農文協)参照)。石油を輸入に頼っている現状で、石油がなくてはつくれない米を食べていて、わたしたち日本人は、自分たちの主食を自給できていると言えるのでしょうか。
森林を切りつくしたように、人類は、化石燃料も、使いつくそうとしています。
第14章「都市の台頭」
この章では、世界各地で、都市が発達していった様子が描かれます。意外な印象を持ったのは、1800年ごろの江戸は、100万人近い人口があって、当時、世界最大の都市だった、ということです。『緑の世界史』の記述からは、はずれますが、江戸幕府は、日本各地から大名を参勤交代させて、その従者たちを、江戸という都市で養っていたわけで、壮大な無駄をやっていたわけなのですね。そういう無駄をやって、大名たちに蓄財させないことによって、日本全体の秩序が保たれていた、と考えると、贅沢(無駄)と貧困の共存こそ、社会の典型の一つなのかもしれない、とも思います。もっとも、それなら、最初から食料の過剰生産なんかしなければいいのにとも思えるのですが、それができないところが、人間の悲しい性質なのかもしれません。
第15章「豊かな社会の創造」
都市の形成が、貧困者を生んでいった様子が描かれます。また、工業生産の増大と、消費経済の進展が描かれます。貧富の格差は広がりました。この『緑の世界史』が書かれた1980年代後半ごろには、アメリカでは、人口の20%が慢性的に飢えていて、300万人が路上生活を送っていたそうです。その一方で、金持ちたちによって、富や地位を誇示するための消費がおこなわれていました。
国内的な貧富の差だけではなくて、国ぐにの間の貧富の差、いわゆる「南北格差」も、大きくなっていきます。いわゆる「開発援助」は、この格差を縮小できませんでした。それどころか、低開発国の社会的・経済的状態は、さらに悪化していきました。たとえば、ひも付き援助。特定の援助国の会社の製品を買わせるために、資金を出す。あるいは、軍事的戦略的に意味がある国ぐにへだけ向けられる援助。世界銀行が出資した巨大ダム建設は、住民の土地を奪い、ダム湖が病気の温床となり、そのダムも、短期間で土砂で埋まりました。たとえば、中国の三門峡ダムは、4年で堆積物で埋まって、役に立たなくなりましたし、老爺嶺ダムなどは、何と完成前に埋まってしまって、建設が中止になったそうです。
低開発国に対する商業目的の融資は、債務国の財政を破壊しました。引用します。
一九八〇年代には、援助は国際通貨基金(IMF)を通じて受けるのが一般的だったが、IMFは先進工業国に支配され、先進国中心の世界の貿易構造を継続、拡大させるものだった。IMFは、第三世界諸国が債務の利子を先進工業国の民間銀行へ、一定の条件で返済できるよう融資してきた。
要するに、援助というのは、開発の押し売りであって、自然を破壊するだけでなく、利子のとり立てによって、弱い国の財政を破壊するものでもあるのです。
第16章「世界の汚染」
この章は、環境汚染がテーマです。
農業とかかわりが深いところでは、アメリカのオガララ帯水層という地下水を潅がいにつかって、多くの地域で水がなくなってしまった、ということ。オクラホマ、テキサス、コロラド、カンザス、ネブラスカ州で耕作放棄地が広がっているそうです。
化学肥料と農薬による、水の汚染が進行しています。アメリカ、ハンガリー、イギリスで、地下水が汚染されているとのことです。硝酸塩の濃度が高くて、新生児に飲ませられないところがあるそうです。硝酸塩の汚染は、窒素肥料の影響ですね。これは化学肥料でなくても、有機の肥料、たとえば厩堆肥などでも、起こります。日本は窒素成分の輸入超過ですので、地下水が硝酸塩汚染される危険性が高いです。
鉱物採掘による汚染もあります。足尾銅山では、鉱廃が渡良瀬川に捨てられて、川の水を潅がいにつかっていた田畑が、鉱毒におかされました。
農薬使用による汚染もあります。農薬の成分には、発がん性のものも多く、農薬の使用によって年間2万人が死に、75万人が、深刻な健康被害を受けているそうです。農薬の被害では、残留農薬の影響を受ける消費者よりも、直接農薬を扱う生産者のほうが、はるかに深刻です。農地からその外の環境への汚染の広がりも、問題です。何せ、化学肥料や農薬は、つかわれる量が半端ではないので、大気、河川、そして海洋の汚染は、食物連鎖を通して、すべての生き物に甚大な影響を及ぼします。農薬を使わない農業も可能なので、そういう方法を普及させたいと思います。
第17章「過去からの遺産」
いよいよ最終章です。汚染と破壊と戦争と抑圧という、人類を主人公にした地球の悲劇を引き起こすきっかけとなったのは、どうやら、農業(栽培)だったようです。
20年以上前のことになってしまいましたが、わたしは、阿木幸男さんの「非暴力トレーニング」の講座を受講したことがあります。トレーニングの一つとして、いろいろな事柄を、暴力か非暴力かに分類することをやりました。多くの参加者は、「農業」を非暴力のほうに分類しましたが、わたしは、農業は暴力だと言い張ったのを思い出します。木を抜いて、小さな生き物たちが住んでいる地面を機械でかき回して、肥料や農薬を降りかけてする作業など、暴力に決まっています。北海道の観光ポスターで、広びろと広がる畑の写真を使ったものがよくありますが、開拓以前にそこに生えていた野生の木や草、自然の中で生きていた動物たちのことを思うと、畑の風景など、おぞましい以外のなにものでもありません。ぜんぜん美しくなんかありません。
農業によって食料を過剰に生産することができるようになった→人口が増えた→階級制ができた→都市ができた→戦争がはじまった→機械が使われるようになった→自然破壊にブレーキがきかなくなった……。こんなのが、おおざっぱな人類の歴史でしょ
うか。旧石器時代には400万人程度で安定していた人口も、増えに増えて、数十億人にまで達しています。限界まで繁栄した人類は、イースター島の文明のように、それを維持しきれなくなって、急激に崩壊するのでしょうか。
理屈の上では、わたしたち人類がとるべき方向性は明らかだと思われます。まず、開発・発展をよいことと考える考え方をかえることが、必要です。そのためには、利潤を追求する経済を解体していく必要があります。他人を利用しようとしなくなれば、人口を増やさせようとはしないはずです。狩猟採集民や、こぢんまりと、つつましく生きてきた人たちの文化に学ぶといいでしょう。人間以外の生き物や動植物に敵対しないようにすることも必要です。そのためには、環境を破壊する工業を縮小していかなくてはいけません。人間中心主義の思想・宗教を、柔軟に無害化していくことも必要でしょう。富や地位を誇示するための消費をやめさせるる必要もあるでしょう。これは、ぜいたく品に税金をかけたり、累進課税を増やしたりすれば、簡単に実現できるでしょう。そして、これ以上の開発をやめさせて、砂漠化を防ぎ、年間500ml以上の降水がある地域には植林をして、森林を復活させる必要があるでしょう。
やったほうがいいことは、分かっているのですが、人間がどのぐらい愚かで、やらないほうがいいようなことばかりやりたがるか、ということも、よく分かっています。なので、わたしには、人類の明るい未来は、想像しにくいです。しかしまあ、人類の未来がどうであろうと、それとは関係なく、わたし個人としては、できる範囲で極力、こぢんまりと、つつましく生きていきたいと思います。そういう生き方は、わたしが過去の文化から引き継いだものの一つなので、そう簡単にやめられるものではないのです。たとえそのようなあり方が、時流に合わなくて、人から笑われることになったとしても、です。
(仏紀2552年8月17日)
藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業 「自然との共生」が生んだ「民族絶滅」』(柏書房)、読み終わりました。いやー、すごい人間ドラマですね。「農」に関わる人は、自分がやっていることを少しでも相対化して自覚できるようにするためにも、この本は、絶対に読んだほうがいいです。
以下、感想を述べていきます。引用は、すべてこの本からです。著者の藤原辰史(ふじはらたつし)さんの地の文でない、つまり「孫引き」の場合は、出典と発言者名を【】に入れて表示します。
まず、主な登場人物から。
この時代のドイツを中心にした地域に、最も大きな影響を与えた人物は、言うまでもなく、アードルフ・ヒトラーです。1933年に首相に当選。1945年に自殺するまでの12年間、ひたすらに、戦争と領土拡張をすすめました。
有機農業に関わる情報としては、ヒトラーは菜食主義者で、有機栽培の野菜ばかりを食べていたそうです。また、タバコぎらいとしても、知られています。「健康マニア」的なところがあったようです。
次に影響力があったのは、ルードルフ・シュタイナーでしょう。人智学の祖です。人智学というのは、一口に言えば、オカルティズムです。ドイツ土着の風俗・習慣をルーツに持っています。
シュタイナーは、ヒトラーより30歳ぐらい年上で、ヒトラーと同時代を生きてはいましたが、ヒトラーが政権をとるころには、すでに亡くなっていました。亡くなる前年に、農業についての連続講演をしていて、この講演内容が、シュタイナー亡きあとにも、「バイオ・ダイナミック農法」と呼ばれる農業運動となって、ずっと影響を及ぼしていくことになります。
シュタイナーの農業に関する思想は、「バイオ・ダイナミック農法」という方法論によって引き継がれていきました。バイオ・ダイナミック農法指導者として、バイオ・ダイナミック農法全国連盟の中心人物として活躍したのが、エアハルト・バルチュという人物です。この「バイオ・ダイナミック農法」が、ヒトラーのナチス・ドイツの農業政策に、大きな影響を与えていくことになります。
ナチス・ドイツ政権の内側で、「バイオ・ダイナミック農法」をとり入れようとしたのが、「帝国食料大臣・帝国農民指導者」の肩書きを持つリヒャルト・ヴァルター・ダレーです。今の日本で言えば、農水相にあたります。
ダレーは、ハレ大学で農学士を獲得していて、人種学を畜産学の知識を応用して修得しました。そして、ナチスの人種イデオローグになりました。
ダレーはまた、喘息・湿疹・肝臓病の持病を持っていました。病気を治したくて、有機農業に近づく人も、多いですよね。
それから、もう一人います。泣く子も黙る、親衛隊隊長のハインリッヒ・ヒムラー。親衛隊と言ったら、公営のテロ組織みたいなもので、その隊長ですから、それはもう、恐ろしい人なわけです。
「バイオ・ダイナミック農法」は、戦時の農法には向かない、とうことで、ナチス・ドイツでは、表向きには禁止されてしまいますが、ヒムラーたちが、「強制収容所」附属の実験施設で、「バイオ・ダイナミック農法」の方法論を引き継ぐような農園を展開します。
ヒムラーの経歴について書かれている部分を引用します。
ハインリッヒ・ヒムラーは、1922年8月5日ミュンヘン工科大学で農学士号を取得し、化学肥料のコンツェルンに入社したがすぐ辞め、1928年にミュンヘン郊外で50羽分の鶏舎を建て、結婚したばかりの妻と養鶏で身をたてようとして失敗した経験の持ち主でもあった。
なんか、新規就農の典型のような人ですね。会社の仕事になじめなく、奥さんと一緒に就農してみたけれど、それも結局うまくいかなくて、やめちゃった、みたいな。
で、農業をやめたあとに、親衛隊という血なまぐさい仕事に手を染めて、これは適性があったのか、隊長にまでのぼり詰めます。そして最後は、「強制収容所」という、死臭がたちこめるような場所で、囚人を労働力として使って、かつて自分たちが失敗した有機農業を、再びはじめるのです。けおされるような光景ではありませんか。
ちなみに、ヒムラーも、総統ヒトラーや、官房長官ルードルフ・ヘスなどと同様に、菜食主義者でした。
ヒトラー総統、シュタイナー教祖、バルチュ農法指導者、ダレー農水相、ヒムラー隊長。このあたりが、主な登場人物です。ひげのヒトラー以外は、多くの人は、顔を思い浮かべられないと思います。適当に、それっぽい人の顔をはめ込んで、想像してください。では、ドラマのはじまりです。
1928年に、ルードルフ・シュタイナーは、農業についての連続講演をおこないます。この講演の内容は、鉱物性肥料を中心に形成された従来の農法を否定して、堆肥の使用を主軸にした農法を主張します。農場全体を一つの有機体と見る考え方と、「生命が存在するかどうか」を重視するところが、特徴的です。このころ、いわゆる「化学肥料」がつくられるようになりますが、これに対してシュタイナーは、「生命が存在していない」と言って、批判します。
シュタイナーの、この、農業についての連続講演は、本にまとめられて、日本語にも翻訳されていますが、わたしは、時間の無駄のような気がして、読んでいません。サンプルとして、『ナチス・ドイツの有機農業』に引用されている部分を、孫引きします。
【ルードルフ・シュタイナー『農業講座』】
植物の内部に動物や人間のための食料となる物質が作り出されている場合には、ケイ石質という回路を通って火星、木星、土星が参与しています。ケイ石質は植物という存在を大宇宙の中へと解き放ち、植物の諸感覚を目ざめさせて、この地球から遠く離れた諸天体が形成したものを、全宇宙圏から受けとるようにするのです。
詩的ですか? わたしは、頭が痛くなってきます。シュタイナーの言説には、有機農業に特徴的に見られるような、「生命」「有機体」のイメージを強調する手法が表れています。藤原さんは触れていませんが、これは、シュタイナーがゲーテから影響を受けたのではないかと、素人考えで思います。
また、藤原さんが、「少なくともシュタイナーの占星学的な言説は、星座の位置で種を蒔く時期を決めていた農民たちの古くからの伝統と無関係ではなかった」と指摘するように、ドイツの伝統、古くからある風俗・習慣をルーツの一つに持つ点は、シュタイナーの「農業講座」を引き継いだ「バイオ・ダイナミック農法」が見せた、ナチス・ドイツの農業政策との親和性を勘案すると、とても重要なことと思われます。
シュタイナーが、農民をおだてる、農本主義的な発言としては、次のようなものがあります。
【ルードルフ・シュタイナー『農業講座』】
農民の「愚かさ」は神の前では叡智であります。農民たちが自分たちの仕事について考えてきたことは、学者たちが考えてきたことよりも、はるかに優れたことであったとわたしはいつも思い続けてきました。
農民に働く「意義」を意識させ、生き甲斐を持たせる、このような言説は、戦争国家、領土を拡張していく国家、そして、ナチス・ドイツのように、食料生産の主な担い手が同胞のドイツ人であったような国家にとっては、どうしても必要とされるものであったのです。
その意味で、同じ時期に、イギリス領インドで有機農業をはじめたアルバート・ハワードとは、事情の違いがありました。ハワードは、次のように言っているそうです。
【アルバート・ハワード『土壌と健康』】
インドール方式は一般に知れわたり、大規模プランテーション産業――コーヒー、ココア、砂糖、トウモロコシ、タバコ、サイザル麻、イネ、ブドウ――にとって、収量、品質ともに著しく改善されたために、もっとも有利な方法であることが理解されるに至った。
ハワードの有機農業が普及したのは、大英帝国の植民地・自治領で、安価な労働力をふんだんに使える国ぐにであったのです。
ハワードは、シュタイナーのオカルティズムを批判しました。これは、文化的ルーツの違いというよりは、シュタイナーは、同じドイツ人を農業へ動機付けしなければならなかったのに対して、ハワードには、その必要がなかった、そういう背景の違いではなかったかと思われます。
アメリカやソ連のように機械・肥料・農薬を使うか、ハワードのような植民地有機農業でやるか、シュタイナーのようなオカルト有機農業で農民を鼓舞するか、当時の、食料増産の課題に対応する方法は、このような選択肢になっていたようです。
このように、農業というものは、「やらせる」工夫をしなくては成り立たないような、〈いやな〉仕事なわけなのです。
おそらく、根本的な問題は、食料増産をしなくてはいけないという指向、国は繁栄しなくてはいけないという指向、自分たちの文化を他所の地域に拡張していかなくてはいけないという指向、なのでしょう。ここを解決しなくては、人類は、永遠に苦しみ続けなくてはならないでしょう。
どのような農業が悪いのかではなくて、もっと根本的に、農業というものは、すべて悪いのではないか、という視点が必要になってくるのだと思います。
↑この段は、わたし田中の意見で、藤原さんは、こんな「非常識」なことは言っていません。念のため。
「バイオ・ダイナミック農法」とナチス・ドイツの有機農業との間には、宗教的なレベルでの共通性があります。ナチ党員で、農園経営者のヘルマン・ラウシュニングが書いた『アードルフ・ヒトラーとの対話』の中に、次のようなヒトラーの発言があるそうです。地の文に組み込まれた引用になっているので、ヒトラーの発言の部分だけを抜き書きします。
【ヘルマン・ラウシュニング『アードルフ・ヒトラーとの対話』の中のヒトラーの発言】
ドイツの農民は、未来への信仰を忘れはしなかった。キリスト教精神は、そのうえに覆い被さっているだけである。ドイツの農民は、キリスト教を捨てて独自の信仰に到達しなければならない。教会は、農民が本来もっていた、自然、神性、姿なきもの、デモーニッシュなものについての神秘的知覚を破壊してきた。しかし、農民気質はキリスト教を破壊できる。なぜなら、農民の背景には、自然と血に根ざした真の信仰の力がひそんでいるからである。
農民が風俗・習慣として伝えていた、そしてもちろん「農法」としても伝えていた、ドイツ的な伝統を大切にしたシュタイナーの思想と、このようなヒトラーの発想とは、よく似ています。時代の前後関係からすれば、ヒトラーがシュタイナーから学んだのでしょうが。
この、ラウシュニングが書いた別の本、『保守的革命』から、アメリカの有機農業運動の指導者ジェローム・アーヴィング・ロデイルの主著『黄金の土』に、ナチス・ドイツの有機農業の思想的に重要な部分か引用されていることを、藤原さんは指摘して、その引用部分を再引用しています。『黄金の土』は、一楽照雄が日本語に訳して、日本有機農業研究会の活動に大きな影響を与えました。日本有機農業研究会は、ロデイルを日本に呼んだりもしています。
ロデイルつながりで言えば、ナチ党政権時代に、「バイオ・ダイナミック農法」の実践家、エーレンフリート・プファイファーが、はるか遠いアメリカに移住して、農園を営みます。プファイファーは、ロデイルに直接的な影響を与えています。プファイファーは、英語で『バイオ・ダイナミック農法および園芸』という本を出版していることも、藤原さんは指摘しています。プファイファーという人は、すごいことをしているわけです。
もう一つ、ロデイル関連で付け足しますと、「自然農法」の岡田茂吉も、ロデイルと深い関係があるらしいですが、わたしは、岡田茂吉の本を読んだことがないので、それがどのような関係なのか、判然としません。ネットで検索すると、岡田茂吉からロデイルへ多額の活動資金の提供があったような記述が、ちらほらありますが、どこまで信じていいのか判断できません。
話は前後しますが、ヒトラーの発言の中にあった「自然と血に根ざした真の信仰」に関連するエピソードを、藤原さんは紹介しています。1940年に、帝国食料大臣ダレーに会見した、報知新聞特派員、藤澤親雄が、『戦時下のナチス独逸』で伝えているダレーの、次のような発言です。
【藤澤親雄『戦時下のナチス独逸』の中の、ダレーの発言】
ナチスの世界観は、日本の神道に非常に近い。そこで我々は、日本のやうに先祖崇拝の感情を振興しようと思ふ。この感情が起つてこそ、過去の伝統と現在の生活とが固く結ばれる。斯かる意味に於て、独逸は日本に学ぶ点が多い。
ドイツ人という人種の「血」に、とことんこだわるナチスが、先祖崇拝という形で、自然に「血」の意識を持っている日本の文化に学びたいと言っているのです。
ドイツ人が、キリスト教を押しつけられる前に持っていた信仰世界に郷愁を感じるように、わたしたち日本人も、近代化以前からあった神道的な世界観(ゆがめられた国家神道ではなくて)に、理想を重ねがちなことを考え合わせると、「血」という概念の持つ強さ、しぶとさに、改めて驚かされます。
「血」と言えば、わたくしごとですが、わたしは、父方も母方も元は「田中」姓ではなく、また、きょうだいがなく、配偶者も子どももなく、「田中家の墓」なんてのもないので、「家」的な観念が、さっぱり分かりません。加えて、子どものころ、まだ赤ん坊の生まれ方といいますか、人間の生物学的発生のし方のようなことを知らないころに、周囲の大人たちが、「血がつながっている」とか「誰それの血を引く」とか「血を分けた」とか「血縁」とか「血統」とか「血族」とか「混血」とか言っているのを聞いて、てっきり、赤ん坊は、両親の血を混ぜてつくるのだと、思い込んでいたのですが、真実を知ったときには、「だまされた!」というくやしさがこみ上げてきたのを、はっきりと覚えています。胎児と母体は、胎盤をとおして、酸素・栄養・老廃物の交換をしていますが、血は、一滴も混ざっていません。わたしは「血」という概念によって、「言葉は実体を伴わない」ということを、身にしみて知りました。
「バイオ・ダイナミック農法」とナチス・ドイツの有機農業との間には、宗教的な共通性があるほかにも、「生命」というイメージを横溢させたり、農民を農作業へ動機づけたりと、共通する性質が多くあって、互いによく共鳴し合いましたが、1941年、ナチスは、「バイオ・ダイナミック農法」を禁止します。バイオ・ダイナミック農法全国連盟のメンバーが逮捕されたり、機関誌が発禁になったりします。食料増産を急ぐあまり、化学肥料をとり入れたり、まどろっこしい「オカルト儀式」をやめさせたり、したくなったのではないかと思います。
しかし、「バイオ・ダイナミック農法」は、ナチスの外では、名前を変えて、「農業研究所」のような形で残ったり、ナチスの内側では、ハインリッヒ・ヒムラーのような人が、「生命法則農法」という名前で、引き継いでいきます。
「バイオ・ダイナミック農法」のような、似ていて微妙に違うものを、利用するか、禁止するかという判断、言い換えれば、とり込むか、排除するかという判断は、非常にむずかしいと思われます。「歴史に‘イフ’はない」と言いますから、もし「バイオ・ダイナミック農法」が禁止されていなければ、ということは、考えてもしようがないのかもしれません。でも、1941年に、はっきり禁止されていたからこそ、ナチ党と心中しないで、戦後も生き残れたことを思えば、「バイオ・ダイナミック農法」の側からすれば、禁止されてよかったのかもしれません。ちなみに、人智学自体は、すでに1935年に、禁止されています。
藤原さんは、「バイオ・ダイナミック農法」が、辺境を求めて、世界各地に拠点を築き上げていていることを指摘しています。ヨーロッパ東部への進出に関しては、ナチスは、「バイオ・ダイナミック農法」が開拓した拠点を利用していけばよかったのです。
この、ナチスと「バイオ・ダイナミック農法」との関係のくだりを読んで、わたしは、植民地を拡大していた時期の、列強各国の、キリスト教教会と帝国軍隊の関係を思い浮かべさせられました。「バイオ・ダイナミック農法」が、農園開拓の形で周辺諸国へ「進出」していくのと同じように、キリスト教の教会も、軍隊による植民地化の露払い役を果たしてきたからです。
「血」の観念に関わる論題を、もう一つ。
藤原さんが本書の中で何度も繰り返して訴えていること、それは、ナチスが、生命に対して、ディープ・エコロジー的な、豊かで、慎ましい感覚を持っていながら、なぜ、大勢の異民族を殺すことができたのか、ということです。引用します。
アードルフ・ヒトラーは、1933年11月24日、「動物を不必要に苛めたり手荒く虐殺すること」(第1条(1))と「麻酔なしの非専門的方法で動物に苦痛をともなう手術を行うこと」(第2条の(9))を禁じた「動物の保護に関する法律」を定め、1934年7月3日には狩猟の制限を定めた「狩猟に関する法律」、1935年6月26日には、「帝国自然保護法」を制定していたのである。マイヤーに代表されるナチスのこうした「生命に対する感覚」、自然に対する慎ましやかな態度は、人間の「生物学的抹殺」を傍観するどころか、むしろそれに積極的にかかわっていたのである。その一方で、ヒトラーやマイヤーたちナチスは、近代西洋の膨張と工業化を支えた「自然=無尽蔵」の思想に抵抗し、人間の無力さと自然の偉大さを強調し、「人間中心主義」的世界観からの脱却を図ろうとしているのだ。
マイヤーというのは、3100万人の他民族をシベリアに追いやり、そのうち1700万人を虐殺するという、「東部総合計画」を立案した、ベルリン大学教授の、コンラート・マイヤー=ヘトリンクのことです。
動物の権利を認めながら、人間は殺すことができる。このちぐはぐさを、藤原さんは、ボリア・サックスの言葉を引きながら説明します。
【ボリア・サックス『第三帝国における動物たち――ペット、スケイプゴート、ホロコースト』】
ナチスのやり方は、動物と人間とのあいだの境界を曖昧にすることで、人間の殺害を動物を殺すように見せることだった。
人間と自然との共生を謳い、人間を自然に溶け込ませようとするエコロジー的思想が、人間と動物との境界を曖昧にさせて、人間の殺害に抵抗を持たせなくさせる、ということらしいです。こういう解説は、なるほどと思わせなくもないですが、しかし、生き物を殺したいという「憎悪・敵意」を説明しているとは、わたしには思えません。この考え方は、心理的に人間を殺しやすくした説明にはなっても、人間を殺そうとした直接の動機を説明するものではありません。人は、たとえ小さな虫でも、「憎悪・敵意」がなければ、あえて殺そうとは思わないものです。
「憎悪・敵意」をあおったものは、何だったのでしょう。藤原さんは、あまり積極的にはお書きになっていませんが、わたしは、それは、優生思想だったのだと思います。優生思想に、人種(幻想としての「血」です!)への偏見を結びつけて、非ドイツ人種への「憎悪・敵意」をあおったのです。
仕事で栽培や牧畜をしたことがある人ならば分かると思いますが、それらの活動には、優生思想が深く浸透しています。充実した種を選んで、畑に植えます。遺伝する障碍がある家畜には、子を産ませません。こういう優生思想に、非ドイツ人種への偏見を結びつければ、人びとの意識は、容易に迫害へ向かいます。
まあ、優生思想についての解説は、「言い古されて」いるので、あえて、今まであまり言われてこなかったエコロジー的思想の落とし穴を強調してみせたのかもしれませんが。
ナチスの思想は、反キリスト教的ではありますが、被迫害意識をかきたてて、怒りや憎しみの感情を外部にぶつける心性は、キリスト教から感染したのかもしれないと、わたしは思います。
旧約聖書に見られる選民意識と、ドイツ民族の優秀性を信じる姿は、大変よく似ています。自民族へのプライドが高まると、過去に受けた屈辱を、何らかの形ではらしたくてしようがなくなるのではないでしょうか。それも、直接屈辱を加えた相手ではなく、屈辱を加えられたという事実を隠すように、攻撃する対象をずらして、悪感情をぶつけていくのです。
もう一つは、地政学的な条件が、ナチス・ドイツを、「人種」迫害に向かわせた、と考えることもできます。他の列強諸国が、本国とは遠く離れた、人口密度の低い植民地で、ただ同然の労働力がいくらでも使える状況であったのに比べて、当時のドイツは、いわば周囲を全部「敵」に囲まれた中で、領土を拡張していかなくてはならず、獲得した領土に元もと住んでいた人たちを奴隷にするのもむずかしく、結局、追いやるか、殺すしかなかったのではないか、と思われます。つまりナチス・ドイツは、土地がほしかったのであって、そこに住む人びとは、いらなかったのです。
もっとも、地政学がナチス・ドイツで発展した学問であることを考え合わせると、こういう地政学的発想は、あと付けの言い訳にすぎないとも言えますが。
本書の一連の考察で見てきたことが、ナチス・ドイツだけに限った問題でないことは、わたしたち日本人も、「満州」で、これと同じような植民活動をしたことを思い出せば、すぐに理解できます。藤原さんは、「満州」の農業政策に影響を与えた、黒澤酉蔵(くろさわとりぞう)の「循環農法」の思想をとりあげています。
黒澤酉蔵といえば、北海道ではよく知られている人です。雪印乳業の創業者ですし、キリスト教主義学校の酪農学園大学の創設者でもあります。酪農学園は、「神を愛し、人を愛し、土を愛する」三愛精神というのを、建学の精神として掲げています。
黒澤の「循環農法」は、家畜の糞尿を肥料として利用する、物質的に地域で完結する有畜農業で、人間と作物と家畜と土との関係の考え方が、ナチスの「生命空間」の思想ときわめてよく類似している、と、藤原さんは指摘しています。そして、黒澤が、ナチスの人種思想に共鳴していたことを裏付けるものとして、次のような発言を引用しています。
【黒澤酉蔵『健土国策と有畜機械農業』】
我々の食物を考へて見るといふと、化学肥料といふものは丁度卵か牛肉といふものであるのであります。蛋白質であります。それでは蛋白質ばかり食つて居ればよいかといふと、さうでない。我々の主食となるのは米なり、麦なり、粟なり、稗なりといふものが主食であつて、さうして魚とか肉とかいふものは、これは所謂栄養の不足分を補ふ補助食物であります。補給食物であります。実は我々欧米の間違つた文化が世の中に広がりまして、これをユダヤ医学と言ひ、ユダヤ文明と申して居りますが、学問の中毒といふものになつて、何でも御馳走さへ食へればよいといふことで、却つて健康を害して居る。
藤原さんは触れていませんが、一楽照雄(いちらくてるお)が日本有機農業研究会を設立するときに、肝心の「オーガニック」を日本語で何と訳すかを黒澤酉蔵に相談しています。一楽は、ロデイルをとおしても、ナチス・ドイツの有機農業に影響を受けています。「生命」のイメージを横溢させたり、農民をおだてたりする手法は、そっくりと言ってもいいほどです。
上に引用した黒澤の発言にも見られますが、有機農業にまつわる言説には、偏見が入り込みやすい傾向があるようです。わたしたちは、言葉のムードに溺れることなく、批判的な心構えをしっかり保って、言葉の手品にだまされないように気をつけたいものです。
(仏紀2553年3月4日)
地球は、だいたい、今から46億年ぐらい前にできました。そして、だいたい今から40億年ぐらい前に、地球上に生命が発生しました。それがいろいろ進化して、だいたい、今から500万年ぐらい前に、二足歩行して、音声言語を使えて、家族を最小単位に生活する、現代人につながる、〈人類〉が、誕生しました。それから、今から1万年ぐらい前まで、人類は、人口400万人ぐらいで、安定した暮らしをしていました。マーシャル・サーリンズが言う「始原のあふれる社会」です。
人口が400万人ぐらいだったころの人類は、自然が自然状態で人類を養える範囲内で生活を営んでいましたから、食べものは、特に苦労しなくても、おなかのすいたときに狩猟採集をすることで、簡単に得ることができました。今でも、狩猟採集民は、1日平均、4〜5時間程度働くだけで、必要な物のすべてを得ることができています。
ところが、今から1万年ぐらい前に、人類は、食べものを備蓄するようになりました。食料を保存するようになると同時に、必要以上の食料を集めて、剰余が発生するようになったのです。これがきっかけになって、人口が増えはじめます。
やがて、農業や牧畜の技術が発明されて、あるいは進歩して、人口増加に拍車がかかります。そして、人類500万年の歴史の中で、長い間400万人ほどまでで安定していた人口が、最後の1万年で、一気に1000倍以上にふくれあがってしまったのです。
自然が自然状態で養える人口の1000倍以上ですから、食料生産は困難を極めますが、狩猟採集時代に比べたら、はるかに激しく、躍起になって働くことで、必要以上の収穫を得られるようになりました。備蓄された食料は、富となり、権力が発生し、都市が形成されます。食料生産は、奴隷によって担われるようになりました。
現代の農業は、化石燃料を大量に投入することで、かろうじて成り立っています。現代の農民を「奴隷」と呼ぶのは、語弊がありますが、農業が底辺労働であることには、変わりありません。特に、輸入食品について考えると、プランテーションでの、児童労働を含む、労働者の過酷な労働、そして、いわゆる〈飢餓輸出(国内に深刻な飢餓を抱えている国が食料を輸出すること)〉も考え合わせると、まさに「奴隷」によって文明は支えられている、と言うことができます。
ローマ、中華、ビザンツ、イスラーム、ヨーロッパ……歴史上の帝国は、すべて農業を経済の基礎に置いていました。農業がなかったら、人間は滅んでしまう、という強迫観念は、歴史的事実に基づいていますが、逆に言えば、事実によって、代替的想像力が押し殺されてきたとも言えます。
わたしは、自分の政治的な立場は、超反動だと思っています。例えば、千数百年ぐらい昔の、大化の改新の時代の社会あたりにあこがれる反動派なんて、まだまだ中途半端で、もう1万年ほどさかのぼって、縄文時代にまで戻ろうとしなくては、本物ではないと、わたしは本気で思っています。
縄文時代の生活は、現代に比べたら、物質的な所有物の量としては、とても「貧しい」のですが、主観的な意識としては、はるかに「豊か」で、幸福であったろうと想像します。
さて、ここで疑問に思えてくるのは、なぜ人類は、約1万年ぐらい前に、とてつもなく激しく働くようになったのか、食料を備蓄するようになったのか、定住して農業をはじめたのか、ということです。高校の歴史の授業でどう教わったか、忘れてしまいましたが、「新石器革命」とか言って、優れた道具が生産性を上げた、というような説明を聞いたような、かすかな記憶があります。
優れた道具が作れるようになったから、人類の社会が変わってしまった? では、なぜ、そのような道具が作れるようになったのでしょうか。偶然? 「新石器革命」という考え方は、わたしには、あまり説得力があるようには思えません。
とは言っても、こんな批判的な発想ができるようになったのは、高校を卒業して30年近く経った今だからなのですから、学校教育が、学生の心に、教育内容に対する批判精神が芽生えないように、どれほど抑圧的な教育をしているかが、分かります。
この、「今から約1万年前に何があったのか」という疑問に答えてくれる本がありました。
西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、です。
この本によると、今から約1万年前に、地球上では、温暖化がはじまったのだそうです。言い換えると、氷河期が終わったのだそうです。
わたしのような、北海道のような寒冷地で栽培をやっている立場からすると、温暖化すれば、作物がよく生長して、結構なことではないか、と思ってしまいがちですが、事は、そう単純なことではなかったようです。
この本によりますと、今から約1万年前にはじまった地球温暖化は、低緯度の、熱帯・亜熱帯地方には、あまり影響がなかったそうです。高緯度地方は、それまで氷河に被われていた地が、現在の寒帯・亜寒帯のようになりました。温暖化の影響を、一番激しく受けたのは、中緯度地帯です。それまでは、草原や疎林が多い地域だったのですが、この時代を境に、温帯森林が形成されていったのでした。そして、この地域こそ、人類が多く住んでいた地域なのでした。
引用します。
氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想される。しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。
ということなのです。
この頃の人類は定住していませんから、食料を求めて移動していくのですが、広範囲で草原が森林になったのでは、行き場がなくなるわけです。で、大型の動物中心の食料を、植物性食料か魚類中心の食料に切り替えていくことになるわけです。
ところが、大型動物に比べると、植物性食料や魚類は、収穫できる量が、季節によって大きく変動します。「実りの秋」に収穫して、それを冬中食べて、春につないでいかなくてはならなくなります。このような必要から、食料の備蓄が行われるようになったのではないか、というのです。
大型動物を主食にしていた人類が、植物性食料や魚類を中心にした食料に代えていく、というのは、大変難しいことだったのではないかと想像します。これができなかったグループは、滅んでいったのかもしれません。
これは、わたしのいい加減な想像ですが、この時期に人間は、死に対する恐怖を感じるようになったのではないでしょうか。そして、この死に対する恐怖を紛らすために、〈とてつもなく激しく働くこと〉も、同時に思いついたのではないかと想像します。
この、〈とてつもなく激しく働くこと〉は、のちに現れる農耕民が持っている、〈とてつもなく激しく働こうとする心性〉に、つながっていきます。
ところで、
アラン・テスタール、山内昶訳『新不平等起源論 狩猟=採集民の民族学』法政大学出版局
という本があります。書名の通りで、民族学の立場から、社会的不平等の発生について考察した本です。
著者のテスタールさんによると、「狩猟=採集民/農耕=遊牧民という対立は、不平等論の探究に主要な準拠枠とはなりえない」のだそうです。では、何が不平等発生の原因か、というと、「不平等の技術=経済的な基礎は、定住生活様式と大規模な食料備蓄にほかならなかった」のだそうです。このあたりの事情を表にまとめると、次のようになります。いろいろな民族の社会を比較・分類する具体的な考察は、この本を読んでください。

食料備蓄が不平等の起源である、と。一言で言えば、そういうことです。そして、この食料備蓄の起源は、西田さんの本に出ていたように、気象変動による試練だったわけです。
西田さんの本とテスタールさんの本から備蓄型社会と非備蓄型社会の文化的な違いをまとめると、以下のようになると思います。
縄文時代の社会は、非備蓄型―定住型―狩猟採集民ですから、上の表の、真ん中の白い部分、〈サゴの採集民〉と同じ部分にあたると思います。縄文時代は、のちの弥生時代のように、水田が作られ、邪馬台国のような国ができ、支配者の墓である古墳が作られるような時代よりも、ずっとストレスの少ない、自由で伸びやかな生活が展開されていたのだろうなあと、あこがれの気持ちを込めて、わたしは想像しています。
社会的不平等の起源に気象変動という要因があったにしても、だから不平等は、し方がないんだ、受け入れなければならないんだ、ということを言おうとして、これらの研究を、わたしは紹介したのではありません。それらの事実と、文明の弊害とを両方知った上で、これからわたしたちの社会を、どういう方向へ変えていったらいいのかを、議論していくべきだと思うのです。
そして、その議論の過程では、「人類は滅んではいけない」という、死に対する恐怖の集団化された観念や、「人類は繁栄するべきだ」という間違った観念が、自然環境を破壊して、かえって、人類にとっても危機的な状況を招いた、そして精神文化的にも、仏教で〈一切皆苦〉と呼ばれているような、苦しみに満ちた状況を招いた、そんな人類の愚かさを、しっかりと認識しなければならないと思います。
以上です。
以下は、2冊の本を読んで、面白いと思ったところで、まあ、〈おまけ〉です。
西田さんの本にあるエピソードで、面白いと思ったのは、南米にいるハキリアリがキノコを栽培する、という話です。アリが、植物の葉っぱを切り取って、巣に持ち帰って、それを咬み砕くと、そこからキノコが生えてきて、それを食べて生きている、ということです。一種の共生関係なのでしょうが、栽培が本能に組み込まれるようになることがあることを知って、興味深く思いました。
でも、アリの社会をモデルに、変なふうに人間のほうへ話を敷衍したりするのは、わたしは、ちょっとパスですけど。アリとかハチとかの社会に理想を見るのがすきな人、いますものね。
テスタールさんの本からは、「財宝は、それを占有する人の威信の印しに役立つ以外の使用価値をもっていない」という言葉と、C・キングさんの研究による、チュマシュ族のシステムについての考察が、面白いです。
チュマシュ族というのは、カリフォルニアに住む部族で、階層化された社会を形成しています。チュマシュ族では、財が過剰になりそうになると、インフレーションを防ぐために、その財に対する組織的な破壊が行われるそうです。壊すために作るなんて、完全に無駄なのですが、階層化された社会には、このような無駄が必要とされるのですね。
いろいろな財を、せっせと買い集めては、せっせと〈ごみ〉として捨てている、わたしたち「先進国」の日常も、これと同じ。都市の建造物は、破壊するために建てているようなものなのです。
(仏紀2553年4月8日)

筑波常治「環境原論――日本農業と自然保護」
筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)という、面白くてためになる本を、古本で見つけて、今、読んでいるところです。雑誌などに発表した12本のエッセー+エピローグで構成されています。
目次は、次のようになっています。
T 日本の風土と思想
環境原論――日本農業と自然保護
日本的自然観と環境破壊
日本人の自然観と人間観
地域開発都市然および文化財保護
U 農耕文化の伝統と現代
「農業みなおし論」のまぼろしと現実
日本人の勤労観
農耕民族の性と習慣
現代「手づくり」考
現代「ふるさと」考
V 自然のなかの人間と機械
「別世界」を拒否した近代科学
キリスト教と科学の発展
技術の進歩と生きがい
エピローグ――亡国の思想を!
この本の中から、いくつかの章の感想を述べてみたいと思います。
筑波常治(つくば・ひさはる)さん。日本農業技術史、生物学史の研究者で、エッセーも書いていらっしゃいます。昭和5年生まれなので、今年で80歳になられます。
今回読む本は、33年前に出版された本で、新刊でもそうですが、古本でもまず、手に入りません。出会えたわたしは、とても幸運でした。道立図書館には蔵書されていますので、近くの市立図書館とかでリクエストしておけば、取り寄せてもらえると思います。
では、最初の「環境原論」から、はじめます。初出は、昭和46年、雑誌「思想の科学」です。
「原論」というだけあって、用語の吟味からはじまります。
「自然保護」という言葉が使われるけれども、筑波さんは、まず、自然と人工が対立概念であることを確認します。そして、保護とは人工的に手を加えることだから、自然に保護を加えたとたんに、それは厳密な意味での自然ではなくなる、と言います。ところが、どんなに人工的な風景でも、水と緑があれば自然があると、特に都会に暮らす人たちは誤解する、と言います。田畑を見て、「自然が豊富にある」と言ったりするのがそうです。この誤解は、日本の文化が、豊富な水や植物に依存して成り立っていたことに起因するのだろうと、筑波さんは言います。
田畑は、自然ではありません。人工的に作られた、生態学的に、非常に不安定な場所です。人間と雑草や害虫との攻防が繰り返されている場所なのです。ヨーロッパ農業が「三圃式」と言って、3年に1度休耕して雑草を生やしていたのに対して、日本の田畑は昔から極端に人工的です。そうなった理由として、筑波さんは、日本の気候や、生える草の性質を挙げています。
雑草や害虫の駆除が人力で限界までなされていた日本の農業では、戦後の農薬の普及は当然であったろうと筑波さんは言います。その上で、農薬禍の原因を製薬資本の営利主義だけのせいにするのは、農民に対する侮辱であり、都会人の思い上がりだと指摘しています。「下部構造は上部構造を規定する」というマルクスの言葉ではありませんが、どこに生まれて、生活基盤をどこに置くかによって、ものの見方、考え方が規定されてしまう現象が、ここにも見られるわけです。わたしも、農業をやろうとして北海道に来て、そして、その困難さに気づいてあきらめたことによって、はじめて気がついた貴重な発見がいっぱいあります。自分の立ち位置を変えることは、非常に大切です。自分の生活の成り立ちを変えられない人は、いつまでたっても、それ相応の狭い考え方から抜けられないでしょう。
最初に出てきた自然保護という言葉の吟味にも関連するのですが、筑波さんは、日本で唱えられる「自然保護」は「特別な自然物の保護」だと言います。野鳥を愛する人たちは、美麗でも美声でもないカラスやスズメに冷淡なように。このような傾向を、筑波さんは「農業的感覚」の自然保護だと言います。言い得て妙です。
「自然保護」に関連して、もう一つ大切な指摘があります。それは、「自然界には生物種属間の栄枯盛衰が存在する」ということです。自然のままにしておけば、滅びる種属が必ずあり、新しい種属が必ず興ってくる、と、筑波さんは言います。しかし、「自然保護」は、この自然の営みに抵抗して、特定の種属を滅びないように保護する。
この問題提起は、人間の個別の文化とか、民族とか、あるいは人類そのものの「滅び」とつながる、重要な論題だと思われます。つまり、栄えることもあれば、滅びることもある、それが自然の姿だ、ということです。
「農業は自然破壊だ」という観点から、筑波さんは次のように言います。引用します。
どれほど美しい野草であり、野鳥であろうとも、自然のままにしておくなら、少なくともその一部は絶滅へむかう。これが自然界の法則である。それをあえて保護するとなれば、そのために要する手間・管理は、これまた時代とともに増強されざるを得ない。この結果、現在のところ野鳥および野草とよばれている生物のいくつかが、将来は完全な人間の管理下におかれることになるだろう。自然保護の帰結はそういうことであり、つまり新しい農業(すなわち自然破壊)の再現なのである。
ここでは、「自然保護」は、農業化していく、という指摘をおさえておいて、少し角度を変えて考えてみましょう。
コリン・タッジという人が『農業は人類の原罪である』という本を書いています。英語の原題は、全く意味の違うものらしいのですが、中で言っていることは、題名どおりなので、この題名をいじってみましょう。
キリスト教の考え方によると、わたしたち人間は全員、原罪と呼ばれる罪を抱えているらしいのです。人間の本質として、罪を抱えている、という発想です。そしてこの罪は、救世主によってあがなってもらわなくてはならない、と誘導していくわけです。
仏教は、ものごとにはすべて本質がない(諸法無我)と考えます。ですから、「原罪なんてない」と、あっさり言ってしまいます。「あると言うなら、持ってきて見せてよ」と。
フロイトの晩年の文化論は面白いのですが、キリスト教が原罪を実在化したように、諸行動の根源としての「欲望」というものを実在化しているので、「人間というものは、欲望に動かされているものだ」という宿命論になってしまっています。
仏教思想の核心は、縁起・縁滅説です。ものごとは、すべて原因があって現象している。だから、その原因を滅すれば、その結果として現象している現実世界も滅することができる、と説きます。仏教は、「このよう」ではない別の世界を想像させる思想であり、世界を「このよう」ではなくさせる方法論まで教えてくれています。
わたしたち日本人が、なぜ雑草や害虫を忌み嫌うのか、なぜ勤勉に働きたがるのか、なぜ季節の変化に敏感なのか。そういったような性質は、日本人の本質ではありません。そういう性質を持った民族が日本人であり、日本人とはそういう性質を持った民族だ、と、同義反復的に言ってしまっては、何も説明したことになりませんし、何も変えられなくなります。神話というものは、有無を言わさず人びとの思考を型にはめるための道具だと言っていいでしょう。
現象には原因があるのですが、まずその前に、現象を把握することが、なされなければなりません。自分たちがまさにそのただ中にいる現象は、当のわたしたちに、非常に認識されにくい。視点を変えることによって、見えてくることがあるでしょう。異文化の中で暮らしてみるとか、社会的立場を変化させてみるとかいったことが、助けになるかもしれません。都市に住む労働者から農民や漁民に生活の基盤を変えてみるのも、とてもいいことだと思います。
現象の把握に続いてなされるべきことは、その原因の究明です。筑波常治さんがこの本の中で展開しているやり方は、とても参考になります。歴史的に見た、気候や、雑草や、作物の日本的特殊性を把握することによって、日本人のどのような性質がどのように形成されていったかを考えるのです。
自分たちの性質を知り、その性質が形成された原因を知ることによって、その性質の解消=克服の方法も分かってきます。方法論の面に限って言えば、仏教と科学は、大変よく似ています。
「環境原論」に戻ります。
筑波さんは、自然保護区の矛盾を指摘します。一定の土地を柵で囲って、内部に手を加えずにいても、自然は保護されない。保護区を自然界に近い状態に保つためには、人間による入念な管理が必要だ、と筑波さんは言います。田畑においてするような入念な管理が。
田畑は、土と作物以外のものを極力排した人工的な空間ですが、自然保護区は、定義上、人工的に手を加えてはいけないものを、人工的に入念に管理しなければいけない、という、にっちもさっちもいかないことになってしまうわけです。
このこともまた、わたしの悪いくせで、仏教にからめて言うと、ものごとは変化し続けている(諸行無常)、なのにそれを、「自然とは、これこれこういうものである」という固定的なイメージにとどめておこうとするから、無理なのだ、ということになると思います。
続いて筑波さんは、自然保護運動が地元民に冷たいことを指摘します。自然保護運動は、おうおうにして、地元民が文明の恩恵に浴することを妨げてしまうのです。「自然保護論者の大部分には、都会人のエゴイズムがあるように思われる」と、筑波さんは言います。そして、「これこそは、農村を都会の植民地≠スらしめようとする発想にほかなるまい」とも。都市と農村が分化して以来、農村は都市の植民地でした。週末に旅をして、農村の「豊かな自然」に触れて癒されたい。そのためにも、農村にある「豊かな自然」を破壊するな、と叫ぶ、都市住民のエゴイズムが、都市住民自身によって、それがエゴイズムであると自覚されることはあるのでしょうか。
中国の文明がこれ以上発展すると、公害がひどくなるとか、日本へ輸出する食料を自国消費に回されて困る、とか言っているのは、これと同じことです。中国人の立場で考えられない、エゴイズムの一種です。
丘浅次郎が、「所謂自然の美と自然の愛」の中で、自然を利用するしかない人間が、自然を愛するなどと言うのは欺瞞だ、という意味のことを言っていますが、それと同じ欺瞞が、自然保護運動の中にはあるのです。ちなみに、筑摩書房版の『近代日本思想大系
丘浅次郎集』の編集をなさったのは、筑波常治さんです。
いったい、どうすればよいのか。引用します。
いったい、どうすればよいのか。自然保護にまつわる安易な幻想を捨てるべきだと思う。人間が自然を保護できるというのは、完全な思い上がりにすぎない。文明の起源とともに、人間が自然に対してなし得ることは破壊≠セけに限定されてしまった。現代人はこの宿命をしょいつづけるほかないのである。
「宿命をしょいつづける」とは、また悲観的な言い振りですが、まず、ここをきっちりさせないと、先へは進めません。もちろん、このような自然と人間の関係を十分理解した上で、非常に逆説的なやり方で折り合いをつける方法はあるのですが、それはまた別の文章になりますので、きょうは、ここまで、です。
筑波常治「日本的自然観と環境破壊」
筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)を読むシリーズ第2回目は、「日本的自然観と環境破壊」です。初出は、昭和46年、雑誌「自由」。
この章の内容をまとめると、欧米に比べて日本の自然の浄化力はすぐれていたので、日本人は長いあいだ、汚い廃棄物は自然が浄化してくれると信じてきたが、自然の浄化力を超える廃棄物を出すようになって、この「信仰」が崩れてしまった、ということになります。
そして、汚い廃棄物によって破壊された環境を前にして、その原因を、機械文明の力不足のせいにする人たちと、機械文明を拒否しようとする人たちとに分かれて、けんかをしている、と筑波さんは言います。このへんの解説は、わたしには、説得力がないように感じます。こういうような2派に分かれて「けんかしている」ようには思えません。
確かに、機械文明を極端に拒否する動きを説明する方法として、自然の浄化力への「信仰」を挙げるのは、分かりやすいと思います。わたしは、筑波さんは、上記2派の中間の「機械を制御しつつ使いこなす」に結論を持っていきたくて、「2派に別れて……」のような解説をしているのではないか、と想像しています。そんな言い方をしなくても、極端な機械文明拒否の動きに対して、その観念性を指摘すれば、ことは足りるのではないでしょうか。実際に使ってみて問題の少ない、いわゆる「適正技術」であれば、いくら使ってもいいのですから。少なくとも、30年以上前に筑波さんがこの本を書かれた時代ではなく、今現在の一般的な日本人の機械文明に対する感覚としては、落ち着きを取り戻しているように、わたしは感じます。
筑波さんはまた、環境破壊の責任を大企業経営者の利益追求と、これを擁護する政府・政治家を非難するだけの人たちも、批判します。こういう人たち(端的に言えば「左翼」ですね)は、ソビエト連邦が崩壊して20年以上たった今でも存在しています。社会的に適当に安泰な位置にいつつ、言葉だけは威勢のいい、きれいごとを並べています。そして、似たような境遇の仲間が集まって、集団自己満足的な言葉を交わし合っています。
筑波さんの文を引用します。
この立場に立つことは、本人にとって快適にちがいない。諸悪の根源は社会「体制」にあり、「政治」にあるのであって、自分たちにはない。(中略)巨大な悪党にたいし、弱者たる自分たちが団結してその非をあばくのだと思いこむことで、正義感は二重にくすぐられる。同時に、具体的にして根本的な解決策をあみだす責任のわずらわしさは、抽象的な「政治」におっかぶせることで、みずからは負わない。そして他方、日常生活では、機械文明の産物たるものを存分に享受し、便利な毎日を楽しんでいる。
まさに社会科学の皮相的な理解こそ、自然への無条件な信頼にかわり、戦後民主主義のもたらした新宗教といえる。多くの日本人がこれにすがり、独善的な安心立命にひたっている。
初出の雑誌「自由」の版元の自由社は、いろいろ変遷があったようですが、この時代に、こんな原稿を載せていたわけで、「へえー」という感慨が湧いてきます。
筑波さんの、この文章が発表された時代に比べて、今の日本の環境破壊は、急性の劇症は緩和されてきましたが、慢性化・複合化は進んでいます。全国各地に建設されたダムや、原子力発電所など、のちの世代にまで引きずらされる問題が、たくさんあります。
世界に視野を広げれば、中国に代表されるような、これから大きく発展していくであろう国での環境破壊をどうするか、日本としては、発展の「先輩」として、技術的・政策発案的な分野で、協力できるところは協力していくべきでしょう。
空疎な言葉のぶつけ合いではなく、一人一人から、具体的・実践的な方法で、調和のとれた、持続可能な生活を創造していきたいものです。
筑波常治「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」
筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)を読むシリーズ、第3回目は、「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」という章を読んでみます。初出は、昭和50年、雑誌「現代ビジョン」です。
去年、「農家になるには」みたいな、「就農本」とでも言ったらいいようなジャンルのハウツーものが、立て続けに出版されたようでした。目をなごませる「緑」に囲まれて、家族で楽しそうに農作業をしている写真なんかが、ページを飾っているようなやつです。
うちはテレビがないので見てないのですが、新規就農者のドキュメンタリーみたいな番組も、いろいろあったらしいですね。最近、農業って、ブームなんでしょうか。
(「田中さん、先見の明がありますね」なんて言われることがたまにありまして、そんなときは、「わたしがやっているのは農業じゃないんですけど;;;;」と、あせってしまいます。わたしは、失敗者です。6年前に東京から北海道に来たときは、確かに農業を目差していましたが、今は、完全にあきらめています。北海道では、2反、3反程度の畑では、農業とは見なされません。趣味です。)
この筑波さんの「「農業見なおし論」のまぼろしと現実」が書かれた昭和50年ころにも、農業の大切さを主張する言説が多かったらしいです。わたしも、同時代を生きていましたが、ぼんやりしていたので、気がつきませんでした。
もっとも、農業を持ち上げ、宣伝することは、それこそ、大昔からやられてきたことで、近年にはじまったことではないのです。このように、繰り返して起こる「農業が大切」「農業をやろう」ブームの中に、筑波さんは、農民と都市住民の思いのすれ違い・対立を読み取ります。引用し
ます。
日本の歴史をかえりみると、つぎのことがいえる。それはいつの時代でも、農民のなかから、農業をやめてべつの活動の場をもとうとする人々があらわれ、これに成功することこそが、ほかならぬ「立身出世」になっていたという事実である。(中略)農業からの離脱に成功し、立身出世をとげた人々は、これを「しそこなった」あるいは「おくれをとった」人々にたいし、自分たちとは逆に農村へ足どめさせ、いやおうなく農業に従事させるための手段をとることになった。(中略)かつての日本の主産業は農業であり、日本人は全体として典型的な農耕民族の特徴をあらわしてきたにもかかわらず、その根柢においては「やむを得ず農業をやっている」という姿勢がつねにひそんでいたと考えられる。農業をやめたくてしかたがないという衝動が、いつも脈うっていたのである。(中略)みずからの願望を実現できた人間は、ほかの人間にたいして、反対の道を強制する。そういう農業に農民を従事させるため、農村離脱に成功して出世した支配層の側から、いわゆる狭義の「農本主義」が宣伝された。いわく、農は国の本、百姓は国の御宝、農業ほど健全ないとなみはない、勤勉は美徳である、土を愛し、自然を愛するのが、農耕の基本である……など。(中略)やむなくやらざるを得ない過重労働を、すすんでやるべきものと錯覚させることに、農本主義を鼓吹する目的があったのである。
すごいでしょう? すごいんですよ。
「就農本」や「就農ドキュメンタリー」、あるいは、新規就農者のブログなんかも、筑波さんが言う「狭義の農本主義」なのでしょう。そういうのって、苦労はしつつも、結果的にうまくいっている事例しか伝えてきませんでしょう? そういう情報だけから農村のイメージをつくって、農民に憧れて近づいていくと、いつか、痛いめにあうと思います。
体験農業で田植えや稲刈りの「まねごと(ごっこ)」をやっているレベルでは、わたしたちは「お客さん」なので、農民の「表の顔」しか見られないでしょうが、村人になるかならないか、という微妙なレベルに達すると、「裏の顔」がちらちら見えてきて、どきどきします。農民の、都市住民に対する、抑圧されていた感情が爆発した例として、筑波さんは、戦争中の、疎開先や軍隊の中での「いじめ」の例を挙げています。
これから農村へ移住しようとしている人は、農民の多くは、農業という仕事を、心の奥底から喜んでやっているのではない、ということを、よく覚えておくといいでしょう。それは、あなたが農村に溶け込むために必要な基礎知識ですが、あなた自身の人生を、しっかりと納得できるものにするために必要な知識でもあるのです。
筑波常治「エピローグ――亡国の思想を!」
筑波常治さんの『自然と文明の対決』(日本経済新聞社)を読むシリーズ。途中をすっ飛ばして、いよいよ最終回です。「エピローグ――亡国の思想を!」を読みます。
筑波さんは、「文明には「寿命」がある」と言います。人間が生まれ、生長し、老衰し、死んでいくのと同じように、文明も、生まれ、生長し、老衰して、死んでいく、ということです。生きものの種属も、突然変異で新しい種属が生まれて、環境に適応すれば、生き残り、適応できなければ、滅んでいくのと同じで、この考え方は、進化論になじんでいるわたしたちには、特に奇異だとは思えません。ある特徴を持った文明が発生し、自然環境に適応しながら発展しますが、何らかの事情で環境に適応できなくなって、やがて衰退して、いつかは滅びるのです。
時間の長さで言えば、一人の人間の一生は、せいぜいがんばって生きても100年ぐらいでしょうが、一つの文明であれば、何百年、何千年という寿命になるでしょう。しかし、一人の人間が、いつか必ず死ぬように、一つの文明も、いつかは必ず滅びていきます。事実、今までも、数多くの文明が滅んできました。一人間や、一文明にとどまらず、人類という種属も、いえ、生物という現象全般も、永遠ではあり得ないでしょう。何億年、何十億年先まで、地球が生命を養える環境であり続けるとは、誰も保証できません。
筑波さんの考えによると、稲作文化を中心に発展してきた日本は、元禄時代に文化の絶頂を迎えたのだそうです。元禄時代には、凶作や地震や富士山の噴火などといった災厄があったにもかかわらず、残された文化は非常に高度で、明るい。筑波さんは、元禄時代を人生にたとえて、「もろもろの生理作用がバランスをたもち、肉体的にもっとも充実した青年期にあたるといえようか」と、言います。ところが、享保時代あたりから、日本の社会は、人間と環境のズレ、自然と文化のバランスの歪みを増大させていきます。そして、明治以降、西洋文明の急激な摂取によって、社会的バランスの崩壊を早めた。現代の日本は、「文化的バランス」の歪みが、史上かつてないほど極端化している、いわば老衰期なのだ、と、筑波さんは言います。引用します。
老人には、老人にふさわしい生きかたがある。年齢をわきまえずに青年期や壮年期とおなじにふるまうと、かえって死期をはやめるのみか、その死にかたをぶざまなものにするだろう。過去にも、多くの民族が、そのようにして、まだまだ前途があるつもりで、しだいにジリ貧におちいり、とうとう「史上まれにみる悲惨な滅亡」を遂げたという事例は、それこそ史上にまれでなく存在している。その愚をくり返さないため、この国の滅亡を前提にして、もっとも犠牲少なくそれを完了する準備こそ、何よりも必要ではあるまいか。亡国の過程をみずからの手で積極的に計画すること、これこそが最大の「愛国的」な行為という逆説がなりたつように考えられる。そこに目標をおいて、そこから現状への対策を考える。そのことがかえって逆に、日本の寿命を長びかせるいちばんの有効な処方箋かもしれない。
筑波さんがこの文章を書いてから33年たった今ふりかえって、日本は、ますますぶざまな突然死に近づいているような気がします。経済が落ち込み、人口も減少へ向かいつつある最近になって、やっと気づく人もでてきたようですが。
大切なことは、人間は必ず死ぬ、文明は必ず滅びる、永遠に続くものなどない、という事実を認めることでしょう。これをしないから、みんな失敗するのです。人間でも、文明でも、壮年期を過ぎたら、日常を生きながらも、同時に、上手に死ぬ準備を進めていくべきなのでしょう。どう
やって? それは、筑波さんが言うように、「文化的バランス」の歪みを解消するように努力することによって、でしょう。間違った方向に偏ってがんばりすぎたことを深く反省して、生き方
を変えていきたいものです。
もう一カ所、引用します。
現在の日本では、相対的な言論の自由のもとで、日本国そのものの罪業への告発が盛んである 。たとえばアイヌ人に対し、朝鮮民族に対し、そのほか多くのアジアの人々に対し、さらにはア ジア以外の地域の民族に対し、日本はとくに明治以降、少なからぬ悪業を行ってきたというので ある。そういった告発の多くに、わたしも同感だ。だが、そういう告発を声高におこなう以上は 、それらの「犯罪」に対する代償として、日本人みずからの手で、この国を葬り去るだけの覚悟をかためるべきである。それだけの覚悟もなしに、つまり日本国の存続を空気のように当然のこととして、批判やら告発やらをくり返しているありさまは、生活の不安のない境遇のなかで、老人がグチをこぼしていることと何ら変わるまい。
この筑波さんの本が出版される2年から3年前にかけて、日本人のテロリストたちが「反日」の主張を掲げて、アジアの人びとを苦しめた日本の企業数社に対して、連続的に爆破事件を起こし
て、多数の死傷者を出しました。日本は、軍事的侵略だけではなく、民間企業の活動によっても 、他国の人たちを苦しめてきました。テロリストたちが掲げた「反日」の主張に、筑波さんは「
亡国」で呼応したのだと思います。
もちろん、筑波さんは、テロリストたちの犯行に同感したわけではありません。大きな歴史的な 流れとしての「文化的バランス」の歪みのあらわれと、テロ事件の背景にひそむ問題とを、重ね 合わせているのです。それにしても、多数の死傷者を出した事件のあとで、このような発言をするのは、勇気のいることであったろうと想像します。
日本のこのような、「覚悟をかためるべき」状況は、現在でも、基本的には、変わっていません 。日本の軍隊は、アメリカがはじめた理不尽な戦争に追随しています。日本の産業は、諸外国の
資源・労働力を安く利用することで成り立っています。現在の日本の文化は、諸外国の人びとの自給的な、「文化的バランス」のとれた暮らしを阻害することによって成り立っている、と言ってもいいのです。
バランスが崩れた文化は、他の周囲の文化のバランスも崩す。他の周囲の文化のバランスが崩れ ることによって、さらに深く、自らの文化のバランスが崩れていく……。悪循環です。どうやって清算しましょうか?
(仏紀2554年1月18日)
ロールシャッハ
わたしたちは、物を見ているつもりで、自分がつけた意味を、物たちの上に見ているだけなのかもしれません。
意味を忘れて、ぼんやりとながめていたい、と思うときがあります。




万華鏡
見る愉しみ、みたいな。




(仏紀2554年1月24日)

















