偶像の薄明(抜粋)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 生田長江訳

反自然としての道徳

     一

 時あつては、総ての欲情が単に宿命的致命的である。それらの欲情は愚鈍さの重みで(もっ)(その)犠牲者を押しつぶしてしまふ。そして後には、ずつと後には、それらの欲情は精神と結婚し、自らを『精神化』する。従前(じゅうぜん)人は、欲情の内なる愚鈍さの故に、欲情その物と戦つた。人はそれを撲滅することを自ら誓つた。すべての古い道徳的怪物共は“il faut tuer les passions”(訳者註――我々は欲情を殺さなければならぬ)といふことについて見るところを一にしてゐた。これに対する最も有名なる方式は新約聖書に、あの山上の説教に見えてゐる。そこでは(ついで)ながら云ふと、事物が全然高所から見渡されてはゐないのである。そこでは例へば、性慾へあてはめて言はれてゐる、『汝の目もし汝に怒らせなば、それを抜き去れ』と。仕合せと如何(いか)なる基督(キリスト)者も(この)訓戒の通りには行はない。単に欲情や慾望の愚さの為めばかりにそれを滅却し、そしてその愚さの不愉快なる結果を予防するといふのは、今日我々にまで単に愚さの一層念入りな一形式のやうにさへ見える。我々は、歯がその上苦しめ悩まさない為めに、其歯をぬき去つてしまふところの歯科医をもはや歎賞しない。他方ではどれだけかの正当さを以て承認されていい――基督教の生ひ立つた土地に於ては、『欲情の精神化』といふ概念が全然胚胎され得なかつたといふことも。否、初代の教会は、既に知れ渡つてゐる如く、『心の貧しき』者等に都合よく『聡明なる』者等に対して(いくさ)をなした。如何(いか)にして人はそれから、欲情に対する一の聡明なる戦を期待することが出来たか? 教会はあらゆる意味に於ける断滅を以て欲情と戦ふ。その施術は、その『治療』は去勢である。それは決して問ひ尋ねない、『如何にして一の慾望が精神化され、美化され、神化されるか?』と。いかなる時代にもそれは訓練の重心を断滅(肉感性の、慢心の、支配慾の、所有慾の、復讐心の)に置いた。しかし(なが)(もろもろ)の欲情を根こそぎ取り去つてしまふのは、生命その物を取り去つてしまふことである。教会のやり方は生命に敵対したやり方である‥‥


     二

 同じ手段、即ち去勢や断滅なぞが、ある慾望との戦に於て、その慾望に節制を加へ得べく、余りに意志が弱過ぎる、余りに頽敗(たいはい)し過ぎてゐるところの人々によつて、本能的に選み取られてゐる。比喩に於て(また比喩なし)に語るならば、la Trappe を、何等かの有効なる敵対宣言を、自分自身とある欲情との間なるすきまを必要とするところのそれらの性格によつて。過激な手段は頽敗者等にのみ必須である。意志の弱さは、一層はつきりと云へば、一の刺戟に対応することの無能力は、それ自身頽敗の一の別な形式たるに過ぎない。肉感性に対する過激なる敵意は、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵意は、一の不安なる徴候(ちょうこう)たるを失はない。それによつて人は、さうした極端へ走る者の一般的情態を臆測することを是認される。加之(のみならず)、かくの如き性格自身が根本的治療に対して、その悪鬼からの訣別に対してもはや十分な確実さを有しない時、その時にこそあの敵意は、あの憎悪は頂上に達するのである。僧侶等の、同じく哲学者等、芸術家等の歴史全体を見渡すがよい。官能に対する最も有毒な事は、不能者からも、禁慾者からも言はれてゐないで、(むし)ろ不可能な禁慾者から、禁慾者であることを必要としたやうな人々から言はれてゐる‥‥


     三

 官能性の精神化がと云はれる。それは基督教に対する一の大なる凱歌(がいか)である。今一の凱歌は敵意に対する我々の精神化である。それは、敵を有つといふことの価値を我々が深く会得するといふ事実に成立する。換言すれば、我々がさきに行為したり論結したりしたのと、反対に行為したり論結したりするといふ事実に成立する。如何なる時代にも教会は、その敵の撲滅を願望した。我々は、我々不道徳家と反基督者とは、教会が存立してゐるといふことの内に我々の利益を見る‥‥政治界に於ても、敵意は今やより精神的に、ずつとより用心深く、ずつとより考深く、ずつとより程よくなつてゐる。(ほとん)(おのおの)の党派が反対党を粉砕し尽さないことの内に(その)自己保存的興味を理解してゐる。この事は大規模の政治にもあてはまるのである。特に一の新しい創造は、即ち新しい国なぞは、味方より以上に敵を必要とする。対照としてこそ、それはそれ自らを必要に感じるのだ。対照としてこそ、それは必要なものになつて来るのだ‥‥『内部的の敵』に対しても我々は異つた態度を取るのでない。そこでも我々は敵意を精神化してゐる。そこでも我々は其価値を理解してゐる。人は反対物に富んでゐる限りに於てのみ豊饒なのである。人は魂が手足をのべてくつろぎたがつたり、平和を熱望したりしないといふ条件の下にのみ、若々しさを失はないでゐるのである。何物も従前のあの願望――基督教の目的であるところの、『魂の平和』より以上に、我々にまで縁遠くなつてはゐない。道徳牛や、善き良心の肥太つた幸福ほど、我々を(うらや)ましがらせない何物もない。人は戦ひをあきらめた時、大なる生活をあきらめてゐる‥‥勿論、多くの場合に於て『魂の平和』は一の誤解たるにすぎない。それ自身の為めによりちやんとした名称を見出しかねたにすぎないところの、何等かの他の物である。迂路と先入見となしに、二三の場合を挙げて見よう。『魂の平和』は例へば道徳的(或は宗教的)領域への、ある豊富なる動物性のやさしき遍照であるかも知れない。或は疲労の初めであり、夕暮が、あらゆる種類の夕暮が投げるところの、最初の影であるかも知れない。或は空気がしめつてゐるといふこと、南風が吹いて来るといふことの一徴証であるかも知れない。或は一の善き消化(時としては『人間愛』とも呼ばれる)に対する無意識の感謝であるかも知れない。或は一切の事物を新しく味へるところの、又その時の来るのを待つてゐるところの、平癒(へいゆ)者の静穏な心持であるかも知れない‥‥或は我々の最も強い欲情のある強い満足につづくところの情態、ある()れなる飽満の幸福感情であるかも知れない。或は我々の意志の、我々の熱望の、我々の悪徳の老衰であるかも知れない。或は虚栄心にそそのかされて、道徳的に自らを飾り立てるといふ放漫さであるかも知れない。或は不確実による一の久しい緊張及び拷問苦の後に、一の確実さが、恐るべき確実さすらもがやつて来たのであるかも知れない。或は行為や、創造や、労作や、意欲の間なる円熟及び老朽の表現であり、静かなる気息であり、到達されたる『意志の自由』であるかも知れない‥‥誰が知つてゐる?――偶像の薄明も事によつたら、一種の『魂の平和』にすぎない‥‥


     四

 私は一の原理を方式化して見よう。道徳に於けるあらゆる自然主義が、即ちあらゆる健全な道徳が、一の生活本能からして支配されてゐる。人生のいかなる誡めも『(まさ)に為すべし』、『当に為すべからず』といふ一の一定した法規によつて遂行される。そして人生の途上に横つてゐる如何なる障害物及び敵対物もこれによつて取除かれる。反対に、反自然的な道徳は、即ち、これまで教へられ、尊敬され、説法されてゐた(ほとん)どあらゆる道徳は、丁度生命の本能の方へぶつかつて来る。それは(この)本能に対する、時には隠密な、時には声高な、そして厚顔な誹謗(ひばう)である。それが『神は人間の胸中をも見ぬく』と言ふ限りに於て、生命の最も深き、また最も高き熱望に否を言ひ、神を生命の敵として取るのである‥‥神を楽しませるところの聖徒は、理想的の去勢者である‥‥『神の国』がはじまる処に、人生は終るのである‥‥


     五

 人が若し、基督教的道徳の中に(ほとん)ど神聖犯すべからざるものになつてゐる如き、生命に対する斯様(かやう)なる抵抗の兇悪を理解したのであれば、それで以て人は仕合せと、何等かの他の物をも理解したのである。そしてそれはある斯様なる抵抗の不要なこと、外見的なこと、不条理なこと、欺瞞(ぎまん)的なことである。生きてゐる者の側からなる生命の誹謗は結局やはり、一定の種類の生命の徴候たるに過ぎない。その誹謗が正当であるかどうかの問題は、問題にさへもされてゐない。一般に生命の価値の問題に接触し得る為めには、人は生命の外に置かれること、そ して他方それを生きた一人と、多くの者と、総ての者と同様によく生命を知ることを必要とする 。これは右の問題が我々にまで近づき難き問題であることを理解するに十分な理由である。我々が価値について(かた)る時、我々は霊感の下に、 生命の視界の下に談る。生命その物は我々に() ひて価値を設定させる。我々が価値を設定する 時、生命その物は我々を通して評価するのであ る‥‥その結果は、神を生命の反対概念及び誹謗として理会するところの、道徳のあの反自然性もまた、生命の一の価値批判たるに過ぎないことになる。それは如何なる生命の? 如何な る種類の生命の? だが、私は既にその答を与へてゐる。即ちそれは衰亡して行くところの、 弱められたる、疲れたる、誹謗されたる生命の評価である。これまで理解されてゐる如き、最後にはシヨオペンハウエルからも『生命への意志の否定』として方程式化されてゐる如き道徳は、自らを一の命令言になすところのデカダン ス本能その物である。それは言ふ、『滅亡せよ!』と。それは誹謗された者の批判である。


     六

 最後に尚ほ我々は、一般に『人間は斯様(かやう)々々であらねばならぬ!』と言ふのが、如何(いか)なるお芽出度(めでた)さであるかを考へえ見よう。自然は(もろもろ)の典型の一の驚くべき富を、一の浪費的な形式及び変化の多様性を我々に示してゐる。しかも或る道徳家の立ちん坊がやつて来て言ふ、『否! 人間は他のものであらねばならぬ!』と。‥‥その上彼は、この幻信家、衒信家なる彼は、如何に彼があらねばならぬかを知つてゐる。彼は彼自らを壁の上に(えが)き、そして“ecce homo !”(訳者註――此人を見よ!)と言ふ‥‥しかし(なが)ら、かの道徳家が自らを単に個人にまで向け、そして彼に『斯様(かやう)々々に汝はあらねばならぬ!』と言ふ時すらも、彼は自らを滑稽(こつけい)にすることをやめない。個人は前からの、及び後からの運命の一片である。来るところの、又来るであらうところの総ての者にとつて、一の律法を、一の必然性を加へたものである。彼にまで、『汝自らを変へよ』と言ふのは、一切の物が自らを変へることを、加之(のみならず)、後方へも自らを変へて行くことを要望するにひとしい‥‥そして現実に、そこは理義の一貫した道徳家等があつた。彼等は人間が他のものであることを、即ち有徳であることを要求した。彼等は彼が彼等の姿にならつて行くことを、即ち衒信者としての彼等にならつて行くことを要求した。その目的の為めに彼等はこの世界を否定した! 小さからぬ狂暴である! 不遜(ふそん)の思ひ切つた種類である!‥‥道徳は、それが人生の志望や、顧慮や、意図からでなく、それ自らに於て誹謗するのである限り、如何なる同情をも有たれてはならぬところの一の特殊なる誤謬であり、言ひ尽しがたく多くの傷害をひき起したところの一の頽敗者的特異質である‥‥これに対して我々他の者は、我々不道徳家等は、あらゆる種類の理解や領会や賞讃に対して我々の胸を開いてゐる。我々はたやすく否定しない。我々は肯定者であることの中に我々の名誉を求める。愈々(いよいよ)我々の目はあの経済――僧侶の神聖な狂気が、僧侶に於ける病的な理性が斥ける総ての物を、依然として使用してゐる、また利用することを知つてゐるところの――に対して開かれてゐる。衒信家、僧侶、有徳者の忌まはしき種属からさへ其利益を引き出すところの、生命の法則に於けるあの経済に対して開かれてゐる――如何なる利益を?――だが我々自身が、我々不道徳家が此場合の答案である‥‥

 


 

四大誤謬

     一

 原因と結果とを混同する誤謬。――結果と原因とを混同するより危険なる誤謬(ごびゆう)はない。私はこれを理性の固有なる腐敗と云ふ。それにもかかはらず、この誤謬は、人類の最も古く()つ最も新しき慣習に属してゐる。それは我々の間に於てすらも神聖なものにされてゐる。それは『宗教』とか『道徳』とかいふ名称を()つてゐる。宗教や道徳に方程式化されたる(おのおの)の命題がそれを包有してゐる。僧侶と道徳の立法者とはあの理性腐敗の促進者である。私は一の実例を挙げよう。各の人が有名なコルナアロの書物を知つてゐるであらう。あの書物の中で彼は、一の長き且つ幸福な生活――有徳でさへもある――一の処方としての彼の小食法をすすめてゐる。あんなにも広く読まれた書物は多くない。今尚ほ英吉利では年々幾千部幾万部となく印刷されてゐる。私は疑はない――この斯くも善意をもてる珍品ほど、それほど多くの災害を来し、それほど多くの生命を縮めたところの書物が、(勿論(もちろん)聖書を別にして)(ほとん)ど一冊もないといふことを。それの理由は、結果と原因との混同である。この正直な英吉利人は彼の食事法の中に彼の長寿の原因を見た。しかし(なが)ら、非常にくわんまんなる新陳代謝とか、僅少なる精力消費とかいふやうな、長寿の諸条件こそは彼の小食の原因であつた。少し食べたり多く食べたりすることは、彼の自由にならなかつた。彼の節約は『自由な意志』からなされたのでない。彼にしてより多くを食べたならば、彼は病気になつたであらう。しかし乍ら(こひ)でない人間にとつては、尋常に食べるといふのが、単に善い事であるのみならず、また必要な事である。我々の時代の学者は、彼の急速なる精力消耗故に、コルナアロのやり方をやつたら直ぐに参つてしまふであらう。Crede experto(実験済みの物を信ぜよ)――



     二

 (おのおの)の宗教や道徳の根柢に横るところの最も普遍的な方法はかうだ、『これこれの事を為し、これこれの事をなすな。されば汝は幸福である! 他の場合に於ては‥‥』各の宗教、各の道徳は此命令言である。私はこれに名づけて、理性の大なる原罪、不朽の非理性と云はう。私の口に於ては、各の方式が其反対な物に変化する――私の『総ての価値の倒換』の第一例である。即ち、一人の上出来な人間は、『うまく行つた』人間は、一定の行為を為し、()つ本能的に他の行為を避けざるを得ない。彼は彼が生理的に表現してゐるところの秩序を、人間及び事物との彼の関係の中へ持ち込む。方式にして云へば、彼の徳は彼の幸福の結果である。長寿と子孫繁栄とは徳の報償でなく、(むし)ろ徳その物が、取り分け長寿及び子孫の繁栄を、即ちコルナアロ主義をも招致するところの、あの新陳代謝の緩漫化である。教会と道徳とは言ふ、『ある種族、ある民族は悪徳と贅沢とによつて滅亡する』と。私の回復されたる理性は言ふ、『ある民族が滅亡して行く時、生理的に頽敗して行く時、その結果として悪徳と贅沢とがやつて来なければならぬ(換言すれば、各の精力消耗したる性格に知られてゐるやうな、愈々(いよいよ)強烈なる、そして愈々屡々(しばしば)なる刺戟に対する需要)』。今ここに一人の青年がはやくも蒼白く(しな)びて来たとする。彼の友人達は言ふ、『かくかくの病気がもとだらう』と。私は言ふ、『彼が病気になつたこと、彼が病気に抵抗しなかつたこと、それは既に一の貧弱にされた生命の、一の遺伝的消耗の結果であつた』と。新聞の読者は言ふ、『この党派はこんな過失で以て滅亡に向ふ』と。私の高等政策観は言ふ。『こんな過失を犯すところの一の党派は、結末へ来てゐる。それはもはや本能のたしかさを有つてゐない』と。各の過失は各の意味に於て本能頽敗の、意志解体の結果である。(ほとん)どこれで以て劣悪が定義される。総ての善きものは本能である――従つて容易で、必然で、自由である。努力は一の駁撃である。神は典型的に勇者と異つてゐる(私の言葉遣ひに於ては、軽易なる脚が神性の第一属性である)。


     三

 虚妄なる因果律の誤謬。――あらゆる時代に於て人々は、何が原因であるかを知つてゐるやうに思つた。しかし(なが)ら、どこから我々の知識を、より厳正に云へば、我々が知つてゐるといふ我々の信念を獲たのであるか? 有名な『内的事実』の領域から、これまで何人もが事実として証明してゐない(その)事実の領域から。我々は我々自身が意志の作用の中にすらも原因であるやうに思つた。我々は少くともそこで因果律の現行犯を取り押へたやうに思つた。人々はまた疑はなかつた――一の行為のあらゆる先行条件が、その原因が意識の中に求めらるべきであつたといふこと、そして人が求めさへすれば、そのうちに『動機』として見出され得たといふこと、でなかつたら実に我々が自由にそれを為し得なかつたであらうといふこと、それに対して責任がなかつたであらうといふことを。結局、一の思想のひき起されることを誰が疑ひ争つたであらうか? 自己がその思想をひき起したことを?‥‥因果律がよつて以て保証されるところの此三の『内的事実』の中で、最初のそして最も確実さうなのは原因としての意志のそれである。原因としての一の意識の(『精神の』)概念は、そして後更に原因としての自我(『主観の』)概念は、意志から因果律が一定したものとして、経験的事実として確立されたあとで、単に派生されたものに過ぎない‥‥その間に我々は正気に復して来てゐる。我々は今日もはやかうした総ての事に関して一語をも信じない。『内的世界』は幻像と鬼火とに充ちてゐる。意志はそれらの物の一である。意志はもはや何物をも動かさない。従つて又何物をも明らかにしない。意志は単に経過に伴つてゐるばかりである。彼は欠けてゐることさへもあり得る。所謂『動機』は今一の誤謬。意識のある皮相現象たるに過ぎない。ある行為の先行条件をも現はすより以上に包みかくすところの、行為の一随伴物たるに過ぎない。そして自我さへも! これは寓話に、作り話しに、言葉の戯になつてゐる。これは全然、感触したり意欲したりすることをやめてゐる!‥‥その結果は何か? そこには全く精神的原因といふやうな何物もない! これに対する名目上の経験全部が、駄目になつてしまつた! これが其結果だ! なぜと云つて我々は、あの『経験』を立派に濫用してゐたのだから。我々はその上にこの世界を一の原因世界として、一の意志世界として、一の精神世界として築き上げてゐたのだから。最も親しい、最も久しい心理学がここに働いてゐる。それは他の何事をもしたのでない。総ての出来事がこの心理学の内にあつては一の行為であり、総ての行為が意志の結果であつた。世界はこの心理学の内にあつては行為の一複合体にたつた。一の行為者(一の『主観』があらゆる出来事の根柢にはいり込んだ。人は彼が最も堅く信じてゐる彼の三の『内的事実』即ち意志と精神と自我とを、自分自身の外へ突き出した。彼は先づ存在といふ概念を、自我といふ概念から()き出した。彼は原因としての彼の自我概念に従つて、『事物』を彼自らの姿にならつて存在するものと想定した。あとで彼が、事物に押し込んで置いた物をのみつねに、事物の中に見出したといふに何の不思議があらうぞ? 今ひとたび言ふが、事物その物は、概念事物は単に原因としての自我に対する信仰の一反射である‥‥そして諸君の原子すらも、器械論者物理学者諸君よ、如何に多くの誤謬が、如何に多くの初歩的な心理学が依然(いぜん)として諸君の中に附着してゐることぞ!『物その物』について、形而上学者(けいじじやうがくしゃ)等の horrendum pudendum(訳者註――恐れらるべき、()つ恥ぢらるべき物)については全く言はないにしても! 原因としての精神が実在性と混同される誤謬!そして実在性の尺度にされる誤謬! そして神にされる誤謬!


     四

 想像的原因の誤謬。――夢から出発するならば、例へば遠い大砲発射につづくやうな一定の感覚にまで、その事実のあとで一の原因が帰せられる(往々にして、丁度夢をみる者が主人公であるやうな全く小さな物語)。その間にも感覚は一種の反響に於て続いて行く。それは()はば、原因衝動が前景にはいつて行くのを許してくれるまで待つてゐる。だが、もはや偶然としてではなく、何等かの意味を有する物として。発砲は一の因果的な仕方に於て、明白なる時間の転向の中に現はれる。あとの物、即ち原因挙示が先づ経験される――往々、電光に於ての如く閃めき過ぎるさまざまな些末事を伴ひながら。そして発砲がそのあとへ来る‥‥何が起つてゐるか? 一定の情態が産んだところの諸概念は、それの原因として誤解された。実際我々は覚めてゐる時にも丁度同じやうにやる。我々の大抵の一般感情は――器官の活動及び反活動に於けるあらゆる種類の阻害や、圧迫や、緊張や、爆発や、そして特に交感神経に於ける情態は――我々の原因衝動を刺戟する。我々は、我々が()()く感ずることに対する、我々が善い気持になつたり、ならなかつたりすることに対する、一の理由を()ちたいと願望する。我々は斯く斯く感ずるといふ事実を、単に確実にするだけでは決して満足しない。我々はその事実に原因を挙げた時に於て、はじめてその事実を承認し、はじめてその事実を意識する。斯かる事情の下に知らず知らず活動し出して来る記憶は、種類を同じうする以前の情態、及びそれと絡み合つてゐる因果的解釈とを導いて来る。だが本当の原因を導いて来るのではない。勿論、諸観念が、随伴せる意識の上の経過が原因であつたといふ信仰は、記憶によつても持込まれる。かくして、本当は原因の探求を阻害し、全く遮断してさへしまふところの、一定の原因解釈が習慣になつて来るのである。


     五

 上の事実に対する心理学的説明。――知られざる或る物を、知られたる或る物へ(さかのぼ)り究めるのは、軽くし、安らかにし、満足さすところの事であるのみならず、一の権力感情を与へるものである。知られざる物には危険が、不安が、心配がつきまとつてゐる。第一の本能が(この)苦しき情態を脱却しようとはかる。第一の原理――何等かの説明は、何等かの説明もないよりかましである。全くのところ単だ圧迫する諸観念からの脱却だけが問題であるから、それを脱却する手段はあまり厳密に選択されてゐない。知られざる物を知られたる物として説明する第一の観念は、それが『真実と見なされる』といふやうな慰めの感情を起させる。真実の尺度としての快楽(『力』)の証拠。(すなわ)ち原因衝動は恐怖感情によつて規定され刺戟される。(いやし)くも可能である限り、『何故?』はその事自体の為めなる原因を与へるよりも、(むし)或る種類の原因を、心を安らかにし、自由にし、軽くするところの原因を与へなければならぬ。何等かの既に知られたる物、体験されたる物、記憶の中に書きしるされたる物が、原因として定められるといふこと、それが右の第一の結果である。新しいもの、体験されないもの、縁遠いものは、原因として除外される。乃ち単に一種の説明が原因として求められるだけでない。縁遠い、新しい、体験されないものの感情を、最も速かに、最も屡々(しばしば)なくしてしまふやうな、選び取られた種類の説明が、最も尋常な説明が求められるのである。その結果として、一種の原因仮定が愈々(いよいよ)重要になり、集中して体系になり、結局支配者となつて現れる。換言すれば他の原因や説明をすつかり排斥するやうになつて来る。銀行家は直に『事務』を考へ、基督者は『罪悪』を考へ、少女は彼女の愛を考へる。


     六

 道徳及び宗教の全領域は想像的原因の此概念の下に属してゐる。――不愉快なる一般感情の『説明』。これらの感情は我々に敵意をもつた生物によつて規定される(悪霊。最も有名な場合は、ヒステリイ持の婦人を老魔女と取り違へるなぞ)。此等の感情は是認され得ないところの行為によつて規定される(『罪悪』とか『有罪』とかいふ感情は、一の生理的不快に置き換へられてゐる――人々はいつでも自分自身に満足する為め理由を見出すのである)。此等の感情は、我々が為すべきでなかつたころの、我々があるべきでなかつたところの或るものに対する刑罰として、賠償として規定される(これはシヨオペンハウエルにより、一層厚かましき形式に於て概括された。そこでは道徳がありの(まま)の姿で、即ち人生の本当の毒害者誹謗者として現れてゐる。(いは)く、『各の大なる苦痛は、それが肉体的であるにもせよ、それが精神的であるにもせよ、我々が値してゐるところのものを言ひ表はしてゐる。なぜと云つて、我々がそれを値しなかつた時、それは我々に来り得なかつたであらうから』と。意志及び表象としての世界第二巻六六六頁)。此等の感情は、思慮を払はれなかつた、そして悪い結果を来すところの行為の産物として規定される(欲情が、感官が、原因としての、『責あり』として仮定される。他の困厄(こんやく)の助けにより、生理的困厄は『真価のあるもの』として解釈される)。――愉快なる一般感情の説明。此等の感情は神への信頼によつて規定される。此等の感情は善き行為をなしたといふ意識によつて規定される(所謂『善き良心』は抑々(よくよく)幸福なる消化と取違へられるほど類似してゐるところの、一の生理的情態である)。此等の感情は企図したことの幸福なる結末によつて規定される(邪念のない失策――ある企図の幸福なる結末はヒポコンデリアの患者に、またパスカル的人物に何等の愉快なる一般感情を与へるものでない)。此等の感情は信仰と愛と望みと――基督教の徳――によつて規定される。全くのところ(すべ)ての斯うした似て非なる説明は結果的情態であり、()はば快不快の感情を一のうその言葉に翻訳したものであ る。人が希望ある情態にゐるのは、生理的根本感情が再び強く豊かになつてゐるからである。 人が神に信頼するのは、豊かさと強さとの感情が彼に一の安息を与へるからである。道徳及び宗教は全く誤謬の心理の下に属してゐる。各の個々の場合に於て、原因と結果が混同されてゐる。或は真実が真実と信じられたるものの結果と混同されてゐる。或は一の意識情態がこの情態の原因系列と混同されてゐる。


     七

 自由意志の誤謬。――ー我々は今日『自由意志』なる概念に対してもはや何等の憐憫(れんびん)をも感じない。我々は単に、それが何であるかを知り過ぎてゐるばかりである。それは人類を神学者風に『有責任』になすことを、換言すれば、人類を神学者等にたよらせることを目的としたところの、世に最も評判の悪い神学者的小細工である‥‥ここに私は単だ、責任感を持たせる手続全体の心理学をのみ与へよう。(いやし)くも責任感の求められてゐる処では、そこに求めてゐるのが、刑罰し審判しようとする本能であるのは通例の事である。何等かの特殊な存在が意志へ、意図へ、有責任の行為へ(さかのぼ)りあとづけられる時、生成はその罪なさを奪はれてしまふ。意志の説は主として刑罰の目的からして、換言すれば罪過あるものに見出したい為めに発明されてゐる。古代の心理学全部は、その創始者が、古代社会の頂点にゐる僧侶等が、刑罰を加へる権利を自らの為めに――或は神の為めに――造らうと欲したことの産物である‥‥人間は審判され、刑罰され得ることの為めに、有責人になり得ることの為めに、『自由』と考へられた。従つて(おのおの)の行為が意欲されたものとして、各の行為の根源が意識の中に横つてゐるものとして考へられねばならなかつた(かくして心理学に於ける最も根本的な贋造が心理学の原理その物にされてしまつた‥‥)。我々が正反対な運動にはいつてゐる今日、別して我々不道徳家等が全力を尽して、罪過概念及び刑罰概念を世界から再び()ひ出し、そして心理学や、歴史や、自然や、社会的制度及び慣習をそれらの概念から清浄にしようと勤めてゐる今日、我々の目には、かの引きつづき、『道徳的世界秩序』といふ概念により生成の罪なさを『刑罰』や『罪過』で塗り汚してゐるところの神学者等より以上の、手剛(てごは)い敵対者はないのである。基督(キリスト)教は処刑者形而上学(けいじじやうがく)である‥‥


     八

 単にそれだけが我々の教といふやうなものは何であるか? 何人も人間に彼の属性を与へない――神も社会も、彼の両親や祖先等も、彼自身も――といふことだ(結局ここに(しりぞ)けられてゐる此馬鹿らしき概念は、『理解の出来る自由』としてカントから、恐らくは既にプラトオからも教へられてゐる)。何人も、彼がそもそも其処(そこ)に存在してゐるといふこと、彼が斯様(かやう)々々に造られてゐるといふこと、彼が此事情の下に、此環境の中にゐるといふことに対して責任を有しない。彼の存在の宿命性はあつたところのもの、あるであらうところのもの、一切の宿命性から引き離され得ない。これは一の特有な意図、一の意志、一の目的の結果ではない。彼にあつては、一の『人間の理想』または一の『幸福の理想』または一の『道徳性の理想』に到達しようとする企てがなされない。彼が何等かの目的の方へ(ころが)つて行くやうにと願ふのは、馬鹿げきつた話である。我々は『目的』といふ概念を発明した。実際には目的といふやうなものはないのだ‥‥人は必然的である。人は運命の一片である。人は全体に属している。人は全体の中に存在してゐる。そこにはわれわれを審き、測り、比べ、罪することの出来た何物もない。なぜと云つて、それは全体を審き、測り、比べ、罪することを意味するのだから‥‥ところでそこには全体の外には何物もない! 何人ももはや責任を負はされないといふこと、存在の本性が第一原因にまで(さかのぼ)り跡づけられ得ないといふこと、世界が感官としても、『精神』としても一の単一体でないといふこと、これこそは大なる解放である。これによつてこそ生成の罪過なさが再び回復されてゐる‥‥これまで『神』といふ概念は生存に対する最大の駁撃(ばくげき)であつた‥‥我々は神を拒否する。我々は神に於ける責任感を拒否する。かくしてこそ我々は世界を救ふのである。

 
 
 

底本:『ニイチェ全集 9 道徳系譜学偶像の薄明反基督』日本評論社
   昭和10年8月23日発行
※ 不明個所は同訳者による大正15年発行の新潮社版を参照しました。
※ 旧字を新字に改めました。
※ 傍点を太字に改めました。
※ いくつかの漢字にルビを付けました。

栽培生活芽には芽を葉には葉を
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『偶像の薄明(抜粋)』