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有島武郎 (ありしま・たけお) 1878-1923
文学者の農業にかかわるトピックとしては、
有島は1922年に、自分は作家として生計が立っているからと言って、その農場の所有権を、「共生農団信用利用組合」という、それまで小作人だった人たちによって合議制で運営する組織に譲渡しました。この集団農場は、敗戦後のいわゆる農地解放で解散するまで、維持・存続されました。
一方、有島自身は、その後創作が続かなくなって、上記の農場の所有権の譲渡からわずか1年後に、情死事件を起こして死んでしまいます。
この作品は、有島が、農場を小作人たちに譲渡するにあたっての考えを、直接小作人たちを前にして話したものです。農場運営に慣れていない人たちへの配慮がなされているのが分かります。
農場を譲渡するにいたる事情を、その背景をも含めて、外部に向けて発表したものが、この作品です。農場を集団で共有するということが、法律的に実施しにくいものであったことが、述べられています。
作品の中で、「トレインする」とか、「クリエイトする」とか、「プルーフを得る」とか、「エッセンシャルなこと」とか、ちょっと油断するとカタカナ語が交じってしまうのは、有島の、ハーバード大学仕込みの教養がそうさせるのでしょう。

石川三四郎 (いしかわ・さんしろう) 1876-1956
1910年は、いわゆる「大逆事件」があった年で、
翌1911年には幸徳らが処刑されますが、さらにその2年後の1913年に、刑期満了で出獄した石川は、ヨーロッパに渡りました。周囲の状況に身の危険を感じていたからかもしれませんし、見聞を広めたかったからかもしれません。
イギリスではエドワード・カーペンターの思想と生活に接したり、フランスではポール・ルクリュ家で数年間にわたって農耕生活を体験したりしました。それらの影響を受けて、帰国してから独特の「土民生活」について多くを語るようになりました。また「農民自治会」という組織を結成したりもしました。
石川が、フランスで体験した農耕生活のことを描いています。畑にはさまざまな発見があるということを、いきいきと語ります。
これは、フランスから日本に戻ってきてから、半農半文筆生活をするようになったいきさつを、一般紙(読売新聞)向けに記事にしたものです。最近注目される「半農半X」の先駆のようなものでしょう。
農業生産を中心にした共同生活への憧れを天真爛漫に語っています。そして、自治の精神を失った都市文明を批判しています。

石原莞爾 (いしわら・かんじ) 1889-1949
石原莞爾は、日本陸軍の軍人です。石原は、「世界最終戦争を経て、世界が一つになる」という考えを持っていました。その最終戦争で米州(アメリカ)と決戦することになる東亜(日本を中心にしたアジア)を強化することを目的として、まず、中国東北部と東部内蒙古を占領して、「満州国」を建国しました。
1937年の蘆溝橋事件以降、中国との戦闘が激しくなると、石原は、「今は生産力を増強する時期だ」として、戦線の拡大に反対しました。そのため、東条英機らと対立して、戦線からはずされました。その後石原は、民間人として、日本と中華民国と「満州国」の連携を呼びかける組織、東亜連盟協会で活動しました。
敗戦後の石原は、日本の非武装と戦争放棄の徹底を主張しました。そして、故郷の山形県に帰り、「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の三原則を掲げて、高瀬村(現在の
敗戦の1年半後、作者の死の2年半前に書かれた作品です。(石原は、ちょうど8月15日に亡くなっています。)
この作品の中で、石原は「国民皆農」を主張します。この新日本構想は、一般民衆には受け入れられず、彼の夢は実現しませんでした。それでも石原は、病と闘いながらも、自ら土に向かっていくことで、理念を実践しました。
石原の関心は、軍人をしていたころから一貫して、「生き延びること」にあったと言えると思います。国家の施策としては無視された石原の構想ですが、生き延びるために栽培をする人たちには、発想の素材を提供し続けています。

内村鑑三 (うちむら・かんぞう) 1861-1930
内村鑑三は、キリスト教に基づく思想家・文筆家です。
内村は、地理学者になろうとして札幌農学校(現在の北海道大学)に入学しましたが、そこで、日本政府の招きで来日していたウイリアム・スミス・クラークの影響を受けたことがきっかけになって、信仰の世界に入っていきます。
無教会主義を唱えて、自宅で聖書講読会を開いたり、「聖書之研究」といった雑誌を発行したりすることをとおして、もっぱら文書による伝道を行いました。
また内村は、日本の公害の原点と言われる足尾鉱毒事件に関して、銅山の経営者を批判する発言をしたり、日露戦争のときには「戦争廃止論」を書いて、非戦を主張したりもしました。自然と平和は、栽培生活に欠かせないものです。
内村の地理学・歴史学の知識が生かされている作品です。敗戦国デンマークが、国土を緑化して、農業を盛んにして、希望に満ちた国になっていった様子が語られます。

内山愚童 (うちやま・ぐどう) 1874-1911
内山愚童は、曹洞宗の僧侶です。社会主義者たちに影響を受け、「禅仏教に基礎をおいた社会主義」を深化させました。
内山は、週刊「平民新聞」に、初期のころから寄稿しています 。また、住職を務める箱根の林泉寺で、仏像の壇に隠した印刷機で、秘密出版もしていました。そして、いわゆる「大逆事件」で、幸徳秋水らとともに連座して、処刑されました。
曹洞宗からは、僧籍剥奪・教団永久追放の処分を受けましたが、1993年になって、ようやくこの処分は取り消され、名誉が回復されました。
これは、内山による獄中手記です。平凡の自覚とは、自由に生活することが当たり前だと、深く理解することをいいます。まず、自らの意識を変えて、続いて、家族との会話をとおして、家庭を変えていこうと、呼びかけています。「食事は、家族でそろって食べよう」なんてことも、言っています。
平凡で、当たり前でいることが、なかなかできないのが、わたしたちです。それをやっていこうよ、というのです。天下国家の、上のほうからどうにかしようという話ではなくて。それを、えん罪で処刑されようとしている人が言っているのですから、その達観ぶりには、驚かされます。
内山は、この手記の中で、農地公有論を提唱しています。

丘浅次郎 (おか・あさじろう) 1868-1944
丘浅次郎は、生物学者です。水生動物の比較形態学が専門でした。ダーウィンの進化論をベースにした独特な文明批評も書いています。
「博物学を授ける目的の一は生徒をして自然の美なるを感服せしめ、随つて自然物を愛するの情を起さしめるにある」という、文部省が掲げる「博物学の教育的価値」の観念性を批判しています。あるがままの自然は、美しくも醜くもあるんだ、と。そして、自然を利用しなければ生きていけない人間が、「自然を愛する」なんて口にするのは欺瞞ではないのか、と。
これも、教育批判です。教えられたことを信じる教育から、自ら疑うことができる教育への変換を訴えています。
ものごとにはすべて差別があるが、それを言葉で表現すると、どこかに「違い」の境界線があるように錯覚してしまいます。言葉で現象を認識しようとする人間の認識の陥穽を指摘しています。
「境界なき差別」に続く文章。人間が頭の中でこねくりだした「論理」は、自然物にはあてはまらない。あるがままの自然物は、いつでも人間の認識からずれていく、という話。

岡本綺堂 (おかもと・きどう) 1872-19391
小説家、劇作家。作品に、新聞小説「半七捕物帳」などがあります。
「綺堂むかし語り」に含まれる一篇です。岡本自身の園芸に関する野性的なこのみを語っています。自然の恵みを無条件に受け入れて楽しんでいる、とのことです。

狩野亨吉 (かのう・こうきち) 1865-1942
狩野亨吉は、安藤
安藤昌益が「百年の後を期して」として、その主著『自然真営道』を書き残してから、およそ200年の後に、狩野亨吉はこの本を偶然古書店で発見します。内容に驚いた狩野が、安藤という「埋れていた」思想家を世間一般に紹介したのが、この「安藤昌益」という文章です。狩野はここで、安藤の思想について、自身との間に一定の距離を置きながらも、あたたかな共感を込めて、語っています。
「安藤曰く、かの農民を見よ。農民は自ら直に耕して食ひ、以つて獨立の生活を營むもので、端的に此大切なる事實を實現しつつあるのではないか。」…
江戸時代中期の秋田・青森地方で、安藤のようなラディカルな思想を構築する人がいた、ということは驚きです。
「百年の後を期して」なされるような深い思索だけが、結局は時代を越えて受け継がれていくのだ、ということを教えてくれる作品です。
安藤の作品としては、原文に現代語訳・解説を付けて、農文協から「安藤昌益全集(全21巻)」が出版されています。第1巻の「自然真営道大序巻」あたりから、読んでみてはいかがでしょうか。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー (Mohandas Karamchand Gandhi) 1869-1948
ガンディー(ガンジー)は、インドの民族主義運動の指導者です。彼は、非暴力の方法で、イギリスに対する抵抗運動を進めました。
塩は、人間にとって必要なものですが、当時のインドでは、塩の製造・販売は、一般人には禁止されていて、高額の税金がかけられたものを買うしかありませんでした。ガンディーは1930年に、仲間たちと海へ行って、塩を作って、それを売りました。「塩の行進」と呼ばれる直接行動です。多数の逮捕者が出ましたが、それ以上に賛同者の広がりが大きくなって、政府は政策を変更しなければならなくなりました。
また、ガンディーは、国内の手工業の復活と、国産品の愛用を訴え、自身も糸をつむぎ、簡素な手作りの腰布をつけて生活しました。
DVD で、映画「ガンジー」を見ました。付録に「メイキング・ドキュメント」というディスクが付いていました。その中にある「ガンジー語録」に、こんな一節が含まれていました。
To forget how to dig the earth and tend the soil is to forget ourselves.
間違っているかもしれませんが、わたしなりに訳してみました。
「地面を掘って、土をちょすやり方を忘れることは、わたしたち自身を忘れることです。」
「ちょす」というのは、北海道の言葉で「いじる、扱う、手入れする、処理する」の意味です。
「スワデシ」というのは、インドの言葉で「自分の国の」という意味で、国産品愛用運動のことを言います。これは、インドの民族主義運動を支える大きな柱になりました。スワデシの誓いのひな型は、下のようなものです。
「神を証人として、私は今日から、自分の使用する衣類は、インドの綿、絹、羊毛をもって、インドで製造された衣類のみを用いること、外国製衣類の使用を止め、私の所有する外国製衣類は全部破棄する。」
自給することについて考えると、それを、単に、得だ、損だ、といった経済の基準で判断するのではなくて、ひとりひとりの生き方にかかわることとして、大切に取り扱わなくてはいけないと思われます。
ガンディーの、「完全な非暴力は、すべての生物に対して全然悪意をもたぬ」「有害な虫類や動物までも除外しない」という言葉は、生命の営みにまかせた農のあり方を追究していらっしゃる川口由一さんの、「草や虫を敵としない」とする思想につながっていくものだと思います。
なお、本文中にある「スワラジ」という語は、インドの言葉で「自己支配」という意味で、インドの独立のことを言います。

権藤成卿 (ごんどう・せいきょう) 1868-1937
権藤成卿は、社会制度史の学者です。思想的には、かなり異色の右翼・反動派です。彼は、ローカルなもの、地域固有の性質のようなものが、民衆が自治的社会を形成する力になる、と信じていました。そして、私有地・私有民が撤廃された大化の改新の時代の社会を、理想と考えていました。
権藤は、自発的な社会形成を熱烈に求めるあまり、現実の社会運動の成果に対しては、不満足に感じることが多かったのではないかと思われます。自身が参加した黒竜会での日韓合邦運動にしても、のちの農村自救運動にしてもです。
権藤が求めて得られなかった理想を理解して、それをどう生かしていくかを考えることは、今日のわたしたちに残された課題なのだろうと思います。
権藤は、農民をおだてながら、結局は搾取するだけの、並みの農本主義者たちとは、全く違います。彼の文章は、一見古風でむずかしそうですが、大切なことをいっぱい教えてくれますので、がんばって読んでみてください。
近藤成卿が信じているのは、民衆が生きていく現場で代代伝えていく、地域固有の文化です。明治政府以来の日本の政策は、西欧の模倣であって、日本の伝統にそぐわないと批判しています。また、植民についても、進出した先の文化になじむべき、とする意見が、ユニークです。
検閲にかかって、数カ所、伏せ字にされています。
北海道に来ても、権藤はいらだってます。
北海道人は、どうして地域に根ざした独自の生産様式を打ち出せないのか。どうしてお上の顔色ばかりうかがうのか。答えは、北海道が国内植民地だからなのですが…。北海道には、いまだに道外の地域を「内地」と呼ぶ人が多くて、驚かされます。
この作品を読むと、現在の北海道が、権藤が来た70年前とあまり変わっていないことが分かります。しかしだからといって、北海道人の自立が不可能だとは、わたしは思いません。多少の意識変革が必要なだけだと思います。

坂口安吾 (さかぐち・あんご) 1906-1955
坂口安吾の作品は、小説でも評論でも、ホンネを真直ぐに展開してくるので、読んでいて爽快な気分になれます。坂口の作法は、変化球のようでいて、じつは、これ以上ないほどの直球なのです。読んでもらえれば、分かります。
農民が保守的であること、損得勘定で動くことの理由を、坂口がおもしろおかしく、分かりやすく解説しています。この作品は、農民的性格を理解するための基本文献です。「農村の魂は、人間よりも土の虫に近い」って、そこまで言うか、普通、という感じです。とにかく面白すぎです。どこまで本当の話だか、あやしいですが。
確かに、都会と違って農村では、うわついたタレント議員には人気がありません。政治家は、地元への貢献度でシビアに評価される傾向が強いからです。農民たちは、ある意味で、政治的センスがとても鋭敏です。都会では、政治の話題は、「ヤボったい」と避けられることが多いのですが、田舎では、開けっぴろげに議論されます。だれそれの後援会に入れ、とか。わたしは断りますが。
坂口によれば、「やむべからざる必要に応じて」つくられるものが、本当に美しい、とされます。美のための美は本物でないから、「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」のだそうです。
何が栽培と関係するのかというと、最後の最後のほうに出てくる、次のくだりです。
必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。
こう言い切ってしまう。かっこいいでしょう? 食べる必要があって栽培される作物は、美しいのです。

佐左木俊郎 (ささき・としろう) 1900-1933
佐左木俊郎は、いくつかの職業を経て、やがて新潮社の文芸誌の編集をするようになりましたが、病気にかかって、32歳の若さで亡くなります。
口の悪い黒島傳治までが珍しく、「佐左木俊郎はいわゆる農民作家らしい農民作家である」とほめるほどで、佐左木の作品を読むと、彼は本当によく農民の生活を知っている、ということが分かります。
佐左木は北海道に住んでいたことがあります。この作品では、北海道(「浦幌川」の地名が出てきます)の地主が小作人たちを搾取する様子が描かれています。社会問題をテーマに折り込みながら、サスペンス仕立てで、ぐいぐい読ませます。あざといぐらいに感じられるほどです。まるで映画を見ているような、情景が鮮やかに目に浮かんでくるような描写が続きます。実際、この作品は映画化されたこともあったそうです。白黒フィルム・無声映画の時代のことですが。(紙芝居ずきのわたしとしては、「弁士」をやってみたいです。)
打って変わって、こちらは地味な作品です。
足踏み式の脱穀機が売り出されるようになった頃のこと、その脱穀機を息子に買ってやりたくて、ある老人が、自分が大切に育てていたサザンカの樹を売る決心をする、という話です。
脱穀機が出る前は、脱穀には
村に戻る人、村から出ていく人、村にとどまる人、それぞれの思いが交差します。
作中の人物、市平は、作者自身のことと思われます。
風景の中の植物たち。スケッチのような、静かなエッセイ。

佐藤垢石 (さとう・こうせき) 1888-1965
佐藤垢石は、新聞記者を経て、随筆家になりました。大の釣りずきでした。
戦争中の、配給制度の下での食べもの事情を語ります。疎開+帰農の様子とか、農家を訪ねて食べものを分けてもらう人たちのこととか。

關寛 (せき・かん) 1830-1913
關寛は、40年間にわたって徳島藩に住んで、医者をしていた人ですが、72歳のときに、妻とともに現在の北海道十勝支庁足寄郡陸別町に移住して、死ぬまでの11年間、開拓・農牧の仕事に従事しました。この、晩年期の人生の大転換は、「我国の生産力を増加するの事に当」るためであったと、「関牧塲創業記事」にあります。
關は、最晩年に至って、農場を使用人たちに譲ろうとしますが、相続権者の反対にあって、失意のうちに亡くなります。この不本意な最期は、トルストイのそれとによく似ていますし(トルストイは妻、關は孫が反対しました)、亡くなった歳も82歳で、同じでした。
医者でもある關が勧める健康法は、水浴びです。関は冬の凍結した斗満川を斧で割って、朝と夕方に、そこに身を沈めていたそうです。人間、慣れというものはあるとは思いますが、みなさんは、くれぐれも無理はなさいませんように。
1901年、關は北海道はトマム原野(現在の陸別町)へ、そこを開拓するために入っていきます。この作品は、その記録です。
小虫の大群に襲われる場面など、事実は小説より奇なりで、「高野聖」のヒルの森なんか目ではないぐらいの恐ろしさです。
道路建設の強制労働の現場から命がけで逃亡してくる労働者の様子が、コメントなしで、さらっと出てきます。強制連行と囚人労働をベースに北海道の開発が進んできたことは、北海道の地域性を知る上での重要なポイントです。
なお、この作品の中では、「土人」という呼称が、当たり前のように使われています。これなどは、關の限界と言えば限界なのですが、この「土人」という言葉も、石川三四郎が言う「土民」に似て、使いようによっては、プラスのイメージにひっくり返すこともできるわけで、要は、それを使う人の心掛け次第で、言葉はどのようにも作用する、ということなのでしょう。
關は、だれにでも簡単に実行できる養生の心得を、簡潔に10カ条にまとめて、徳島新聞の付録にして、配布してもらいました。この作品がそれです。

ヘンリー・デイビッド・ソロー (Henry David Thoreau) 1817-1862
生計の立て方から言うと、ヘンリー・デイビッド・ソローは、今で言うフリーターのようなものだったのではないでしょうか。園芸、大工、測量、鉛筆製造など、あれこれいろいろな仕事をしていました。
28歳のときから、ソローはたった一人で、大自然の中で、2年と2カ月間にわたって、自給自足の生活を送ります。これは、自分が組み込まれている社会を、距離を置いて冷静に観察するための、期間限定の実験だったのでした。
ソローは、みんなが森の中で仙人のように暮らせ、という主張をしているのではありません。異文化としての自然に触れて、自らの姿を逆照射する、そして再び文明社会に戻って、能動的な生き方をしていく、というのが、ソローの主題なのではないかと思います。
ソローは、43歳の冬に、雪の中で、樹木の木目の研究を熱心に続けたのが禍して、健康を害して、闘病生活の末、46歳で亡くなりました。彼は、生涯独身でした。
ソローの主著です。“Walden, or life in the woods”が原題です。ウォールデンというのは、ソローがそのそばで自給自足の生活をした湖の名前です。
この本は、多くの人が日本語に訳しています。その中から、翻訳著作権が切れている水島耕一郎の訳をご紹介します。とりあえず、入力が終わっている「暖室」の章だけですが。他の章も、ひまなときに追加していくつもりです。

徳冨健次郎 (とくとみ・けんじろう) 1868-1927
徳冨
トルストイに大きく影響された人で、直接トルストイに会いに行ったりもしています。後に半農生活をはじめるのも、トルストイに感化されてのことです。
このごろは、「田舎暮らし」をテーマにしたブログをよく見かけるようになってきましたが、この「みみずのたはこと」は、「作家・徳冨蘆花による田舎暮らしブログ」といったふうな作品です。「田舎暮らし」、明治・大正期の流行り言葉で言えば「田園生活」となります。「美的百姓」という言葉も頻繁に出てきます。世田谷がまだ田舎であったころの物語です。
徳冨は、田舎に暮らしながらも、都会的感覚に足場を置いて、文筆活動を続けました。自身を評して「旅の人」「見物人」とも言っています。徳冨の作品は、都会で暮らす人たちにとっては、一服の清涼剤のようなものだったのかもしれません。
この作品の中には、關寛がアポなしで徳冨を訪ねて来た話も出てきます。……「明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な
(作品全体を再ファイル化しようとしたのですが、容量的にわたしが使っているパソコンでは扱いきれないようなので、關寛にかかわる部分だけをコピペしておきます。全文をお読みになりたい方は、青空文庫でご覧ください。)

槌田龍太郎 (つちだ・りゅうたろう) 1903-1962
槌田龍太郎は、化学者です。
農業関連では、肥料の硫安が稲作に不適切であることを訴えた、いわゆる「硫安亡国論」と呼ばれる一連の発言で知られています。
「未来人への侵略」
資源を浪費することは、戦争による侵略に等しい、未来の人びとへの侵略である、と批判します。
〔※ 著作権保護期間経過後、2013年1月に公開予定〕
「硫安追放」
農業者の経験による知恵と、科学的な方法との協働によって、肥料「硫安」の酸害・硫黄害をつきとめ、注意を促し、さらに、硫安によって老朽化した田んぼの再生方法も考えます。
〔※ 著作権保護期間経過後、2013年1月に公開予定〕
「私はなぜ化学を選んだか」
商業学校の学生だった槌田が、商業の罪悪性に気づき、進路を変えていく話です。
〔※ 著作権保護期間経過後、2013年1月に公開予定〕

太宰治 (だざい・おさむ) 1909-1948
小説家。青森県の、大地主の家に生まれる。
元になる本がある、「翻案作品」の一つ。菊づくりが趣味の、貧しい独身男性が主人公。自分が育てた菊を売って金銭を得ることを潔く思わない主人公に、最近、妙に共感しています。

知里幸惠 (ちり・ゆきえ) 1903-1922
アイヌ民族みずからによってまとめられた最初の神謡集である「アイヌ神謡集」の編著者。
かつて、狩猟採集を中心に生活していたアイヌ民族に農業を強制したのは、わたしたち和人です。植生を破壊して、動物たちを滅ぼして、機械・燃料・肥料の面で、外国の地下資源に依存して、持続不可能な農業を抱え込んで、右往左往しているのが、現在のわたしたちです。特に、北海道に住んでいる和人であるわたしたちは、わたしたちが壊してきてしまったアイヌ民族の、「持続可能な」生き方に、改めて学ぶ必要があると思います。
知里は、この『アイヌ神謡集』の「序」で、アイヌ民族がかつて生きていた世界と、今の現実の世界とを、対比的に述べます。知里がなげく現実の世界とは、それへの同化を強制した、わたしたち和人の、この行き詰まった現実の世界でもあります。
アイヌ神謡の美しい世界を、堪能してください。

寺田寅彦 (てらだ・とらひこ) 1878-1935
物理学者。随筆家。実験物理学、地球物理学の分野で業績を残しました。また、夏目漱石に出会って、文学にも目覚めました。
「路傍の草」に収められている短編です。草に対する飄然とした態度と、考えはじめると、あれこれこだわって、「研究」に仕立て上げないではいられないようなところが、面白いです。

豊島與志雄 (とよしま・よしお) 1890-1955
小説家、翻訳家、児童文学作家。法政、明治、両大学の教授もしました。
むかしむかしの、ある国の王子と森の精との交流を描いたファンタジーです。
城下の人びとが増えてくると、森の木を切って、建築用の木材にする必要がでてきます。あるいは、木を切ったあとを、食料生産のための畑にする必要がでてきます。繁栄のために森を利用する人間と、それによって消えてゆく森の精たち。
森の精の王女である「千草姫」が言います。
「悲しいことには、いつかは私達の住む場所がなくなってしまうような時が参るでしょう。私達は別にそれを怨めしくは思いませんが、このままで行きますと、かわいそうに、あなた方人間は一人ぽっちになってしまいますでしょう」

レフ・ニコラエビッチ・トルストイ (Lev Nikolaevich Tolstoi) 1828-1910
説明は要らないでしょう。文豪トルストイです。ファースト・ネームの「レフ(Lev)」は「レオ(Leo)」と表記される場合もあります。どうしてなのか、わたしは知りません。
彼は、キリスト教に基づいた、簡素な農民的生活を理想とする考えを持っていました。武者小路実篤・徳冨蘆花ら、明治・大正期の日本の文人たちは、トルストイから圧倒的な影響を受けました。
「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などの長編小説が、生前からずっと、多くの人たちに支持されています。ノーベル文学賞がついに彼に与えられなかった、という事実が、トルストイが世界に占める位置を物語っているように、わたしには思われます。つまり、彼は富や名声に惑わされることなく、わが道を歩んだのです。
もっとも、ノーベル賞の、日本円にして一人1億円以上の賞金の財源は、19世紀末に、ノーベルが、紛争を抱えたヨーロッパ諸国に火薬を売り込んでためた金の利子ですから、そのような金をもらって喜んでいるようでは、いけませんよね。
ちなみにわたしは、単に長編が苦手という理由のために、上記の代表作は未読です。
民話をベースにして書かれた短い作品です。愚直に農耕することのよさを、分かりやすく描いています。軍拡や経済侵略に対する批判も巧みに盛り込まれています。
日本語訳は、菊池寛の仕事です。

三澤勝衛 (みさわ・かつえ) 1885-1937
三澤勝衛は、長野県の小学校の、のちには中学校の教師をしていました。地理教育についての論文を多数残しています。合い言葉は、「自然に聞け!」です。
この作品は、長野県砂防協会でおこなった、三澤の講演の要項です。自然を知ることの大切さについて、人間と自然との正しいあり方について、教えてくれます。
「東北地方以北の寒冷地に、高温多湿を要求する稲の栽培は無理だ」との意見は、よくぞ言ってくれた、と思います。こういう、本当のことをさらっと言ってしまう人って、わたし、すきです。
明治・大正・昭和初期の時代を生きた三澤勝衛ですが、その言葉は、まるで現代のわたしたちに語りかけているようです。読まないと、そんしますよ。

宮澤賢治 (みやざわ・けんじ) 1896-1933
宮澤賢治は、農家に育ったのではありませんが、農業に引きつけられていった人です。4年間ほど、花巻農学校の教諭をしたあと、羅須地人協会という場を作って、近隣の農民たちに農業や音楽を教えました。
宮澤も、病気のために、人生が思うに任せなかった人の一人です。しかし、そのために思いが内に向かって、作品に結晶されていったことを思うと、その作品を享受する読者としては、複雑な心境です。
宮澤の生前に出版された本は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の、2冊だけです。
宮澤の作品として、おそらく一番よく知られているのは、この詩ではないかと思います。宮澤の誠実なキャラクターがよく表れています。この作品にあるような、きわめて純朴なことを言っても、いやみに聞こえないところが、宮澤の生き方のすごいところです。
このファイルは、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に続く連(「南無無辺行菩薩… 」以下)を含めて一まとまりだ、という解釈に基づく、独自のバージョンです。
この詩は、宮澤が亡くなった後に、彼の手帳に書きとめられてあったものが、公表されたものです。文中、「萓ブキ」は「萱ブキ」、「稲ノ朿」は「稲ノ束」、「ヒドリノトキハ」は「ヒデリノトキハ」の間違いと思われますが、発表するつもりで書いたものではないであろうことを考慮して、写真版を元に、あえて書かれてあるとおりに入力しました。
自分の命を犠牲にして、村の冷害=飢饉を救う人物が描かれています。
火山を噴火させて、大量の二酸化炭素を噴出させて、気温を上げて冷害を救う、という方法は、二酸化炭素がいわゆる「地球温暖化」の原因として排出規制されようとする現代では、とても考えられないような裏技です。
この作品に出てくる作物「オリザ」は、イネのことです。この熱帯・温帯起源の作物を、ケッペンの気候区分でいう冷帯にあたる東北・北海道で作ろうとするのは、そもそも無理がありました。品種改良や技術革新の努力は尊いと思いますが、農民に強いられてきた犠牲の大きを思うと、「悲劇の作物」と呼ばざるをえません。
宮澤が、農業と芸術の調和を図って打ち出した宣言です。彼の思索そのまま、彼の人生そのまま、という感じになっています。寄せ集めのようでいて、宮澤の生そのもの力によって、微妙にまとまっています。

山村暮鳥 (やまむら・ぼちょう) 1884-1924
詩人。小作農家、工場労働者、小学校教員をへて、キリスト教日本聖公会の伝道師になりましたが、病気のために退職しました。
初期は、先鋭的な作風でしたが、晩年になってからは、素朴な味わいの作品を残しています。
山村暮鳥の遺稿。

山本鼎 (やまもと・かなえ) 1882-1946
山本鼎は、リアリズムの画風の版画家として知られ、作品発表の場として、美術文芸雑誌を発行したりもしました。やがてフランスに留学しますが、ロシア経由で帰国する際に農民美術に触れて、啓発されました。日本農民美術研究所を設立して、農家の副業として美術工芸品をつくることを勧めました。また、学校教育の中で自由画を描くことを提唱しました。
山本は、この「農民美術と私」を書く1年前に、「美術家の欠伸」という
文章の中で、次のように言っています。
美術は所謂余剰価値によって栄えてきた
そう、美術は直接間接に、余剰価値(富)によって擁護されますし、美術のがわからは、余剰価値がより栄えるように、それを讃美するのが、務めとなります。
余剰価値のルーツは、備蓄食料です。自然状態では、食料が手に入る量は波があって、それに合わせて、わたしたちの心も波打ちます。美しいものに出会えば感動して、その感動を仲間と共有することもあるでしょう。そのような、変幻する世界に対する自然な表現と、「余剰価値と美術」の関係とは、決定的に異なります。余剰価値というのは、文字どおり、本来必要のない無駄なものであるうえに、困ったことに、これが一度形成されると、継続的に増殖・強化されていってしまう傾向があるのです。
山本は、余剰価値と美術の関係に気づいていましたが、自身が美術家であることは、やめませんでした。山本は、子どもや農民に美術をさせることによって、自らを、非正統的な美術家へと、山本本人の表現で言えば「脱線」させたのでした。
余剰価値に従わせ、余剰価値をさらに蓄積させようとする美術を〈のぼりのエスカレーター〉にたとえるならば、山本は、この〈のぼりのエスカレーター〉の途上を、逆向きにおり続けるパフォーマンスをしてみせていたのではないでしょうか。
「農民美術と私」の中で山本は、次のように言っています。
昨年欠伸した美術家だつた私は(ずつと前から欠伸して居るのだが)今年は脱線した美術家になつてしまつた。

與謝野晶子 (よさの・あきこ) 1878-1942
與謝野晶子は、歌集『みだれ髪』や、反戦詩「君死にたまふことなかれ」や、源氏物語の現代語訳などで知られています。奔放さと意志の強さを感じさせる作風を持っています。
やりたくないのに家業を継いで農家になったり、やりたいのに道が開けなくて農家になれなかったり、ということが多い中で、この物語の少女は、十分納得した上で、職業の一つとして農業を選んでいます。幸福な事例と言っていいでしょう。
母が娘に対して、決して強制することをしない、対等な立場で話しかけているのが、印象的です。
與謝野は堺の商人の家庭で育ちましたから、商家の浮き沈みは、よく分かっていて、そのことは、この作品の中にも盛り込まれています。それに比べると、主人公ような、小規模自営の農家の生活は、穏やかで安定したもののように感じられたのだろうと思われます。

渡辺大濤 (わたなべ・だいとう) 1879‐1958
自給思想の源流といえば、真っ先に安藤昌益が挙げられるでしょう。渡辺大濤は、古書店で偶然に安藤昌益の本を「発見」した狩野亨吉の元で安藤昌益の研究をして、『安藤昌益と自然真営道』という本を出版しました。
世界に1セットしかない、100巻92冊におよぶ安藤昌益の自筆本『自然真営道』は、関東大震災のときに、保管先の東京帝国大学図書館で焼けてしまいます。全巻を読破したのは、狩野亨吉だけ……。
E・ハーバート・ノーマンの著書『忘れられた思想家―安藤昌益―』が出版されたころの、安藤昌益研究の進み具合が分かります。
文献を丹念に調べ、縁のある土地にその足跡を探す。少しずつ「証拠」が出てきて、江戸時代中期における安藤昌益の活躍の様子がよみがえってきます。「忘れられた思想家」安藤昌益を、何とか現代によみがえらせようとする努力が感動的です。