徳冨健次郎

みみずのたはこと(抜粋)
徳冨健次郎

      関寛翁

       一

 明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙なじいさんがたずねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云うじじいと名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、あごちと疎髯そぜんをヒラヒラさせ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ずを折った。
 兎も角も上にしょうじ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごりごりした無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
 其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作ぞうさもないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官とりが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々ししとして仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼おうおんともに健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるをきらった。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及びいの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、かたの如く突然たるものであった。
 爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙けいし蠅頭じょうとうの細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端ちゅうとはんぱな彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざわざ来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇ほしわらび、萩のステッキ、鶉豆うずらまめなぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南しょうなんの老父に此爺さんのうわさをしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺てこずって居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊のみぎり老父がもとに立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
 北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りにうながす。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
 左にかかぐるは、訪問記の数節である。

       二

「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川としべつがわの谷を北へ北へまた北へ北へとはしって、夕の四時淕別りくんべつ駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走あばしり線が淕別まで開通した開通式の翌々日である。
 今にはじめぬ鉄道の幻術げんじゅつ、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く淕別に、最早もう人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす淕別館の片隅で、いわいの赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘をしてあとにつき、斗満とまむの関牧場さして出かける。
 新開町しんかいまちの雑沓を後にして、道は直ぐ西にあお黄昏たそがれけむりに入った。やがて橋を渡る。淕別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫のはなしを聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨はんで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々さあさあ――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風まつかぜか。いや、松風でない。峰の嵐でもない。水声すいせいである。余は耳を澄ました。何と云うさわやかな音か。此世の声で無い。確に別天地からかようて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしいである。人夫にきくと、果して斗満川とまむがわであった。やがて道は山側やまばたをめぐってだらだら下りになった。水声の方からぱっと火光あかりがさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声はなしごえがして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側のひくい草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声にす橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤドヤ戸口から入ると、まぶしい洋燈らんぷの光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払せきばらいと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」

           *

 九月二十五日。雨。
 爺さんでは長過ぎる。不躾ぶしつけでもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓えきていで、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建てはなしの納屋、浴室、窖室あなぐらもあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸ほりいど、山から引いたのと二通りもあって、贅沢ぜいたくはないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功ろうこう片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向かわむかいにあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢くさむらひらいて牛馬舎一棟、人の住むひく草舎くさやが一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨あきさめらして居る。
 駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓がらすまどから形ばかりらちを結った自然のまゝの小庭こにわや甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉こすぎ榲邨おんそんの「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香をいて神明に祈り、机の前に端座たんざして老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記ヨブきなぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族ゆうぼくぞくの老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住むが境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
 おちつけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さまざまの話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲ふぎゅういんと云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によくくそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指のさきが左の方に向って鉤形かぎなりに曲って居る。打診だしんに精神がこもる証拠だ。乃公わしの打診は何処をたゝいても患者の心臓しんぞうにピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものをかかえて来た。関家の定紋九曜をりぬいた白木のがんで、あなたが死ぬ時一処に牧場ぼくじょうに埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮こくちょうと云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道足寄あしょろ郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎ぼうしゃを訪われたのも、実は五郎君のすすめであった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
 翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。ひらいて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家にわか刷物すりものである。

日々の心得の事

 一 一家和合なかよくして先祖を祭り老人としよりを敬うべし
 一 朝は早く起き家業に就き夜は早くにつくべし
 一 諸上納しょじょうのうは早く納むべし
 一 金銭取引の勘定かんじょうは時々致すべし
 一 他人と寄合よりあいの時或は時間ときの定ある時は必ず守るべし
 一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
 一 偽言うそは一切いうべからず
 一 火の要心を怠るべからず
 一 掃除そうじに成丈注意すべし
 一 流し元と掃溜はきだめとは気をつけて衛生に害なきよう且肥料こやしにすべき事
 一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
 一 喰物くいものはむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
 一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
 一 買物は前以てねだんを聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
 一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
 一 常着つねぎは木綿筒袖たるべし
 一 種物は成るべく精撰して取るべし
 一 農具はさびぬ様に心懸くべし
 一 貯金は少しずつにても怠るべからず
 一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
 一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
 一 他人ひとの子をも我子にくらべて愛すべし
 一 他人より諸品しなものを借りたる時は早く返すことに心がくべし
 一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
 一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
    明治四十三年

 翁はもともと我利がりから広大の牧場地を願下げたと思わるゝをしんから嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
 午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯こくぜん蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療せりょうを受けに利別としべつから来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故なぜもっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけのはだを見せろ、と翁が云う。からだくさいからとモジモジするのを無理やりに帯解かせる。上半身があらわれた。正に熊だ。腹毛はらげ胸毛むなげはものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃもじゃ渦うずまいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々つくづく感嘆して見惚みとれる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶やくびんが並んだ次の間に調剤ちょうざいに入った。
 河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗きれい縞栗鼠しまりすが来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだまだ山の中だ。
 四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時にかゆ二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水かんすいして床に入るのが、翁の常例だそうな。
 夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後哈爾賓ハルピンで開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕あばたある鳳眼にして長面の片山君は、銭函ぜにばこの海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞あぐらかき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶほおげたきかぬ気らしい細君は、モンペはかまをはいて甲斐甲斐しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。 淕別りくんべつは古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄わなにかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。さけます鯇(やまべなぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝためしにもなる山鳥の塩焼にもいて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人をくることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先はさきにはさまった豆粒まめつぶを噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠をげると重たい開墾かいこんぐわがぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人おっとの留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡本別村ほんべつむらの役場までの十余里はまだいいとして、釧路の白糠しらぬか村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙さしがみが来てものこのこ出かけて行かねばならなかった話。ちんな話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒せきれいが鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦がねたましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
 九月廿六日。はれ
 翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人淕別りくんべつ の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺こっぱぶきの此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯きびめしを食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪わりまきが山のように積んである。此辺はわらびを下草にしたならの小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐそばを流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角やまはなをめぐって少し往くと、山際やまぎわに草葺のあばらがある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側かわはたに移ったそうな。何時の間にか淕別谷りくんべつだに別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓えきていから十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、 淕別川クンボベツ川斗満川の相会する淕 を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川としべつがわの谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大いちだい鎌状かまなりをなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、 淕別駅りくんべつえき別停車場及淕別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して淕となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅かわはば六七間もあろうか。 淕別橋からながむる 淕別川の川床荒れて水の濁れるに引易ひきかえ、斗満川の水の清さ。一個々玉をあざむこいしの上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影ひかげみだしてはしり行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満とまむの水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は 淕別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水しみずが山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣ゆかた一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、おので氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
 駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場こまばの壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕てんまくを張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
 昨夕来泊した若年じゃくねんの測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめまめしく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だとめる。
 午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内らちないに入る。東向きの山腹、三囲みかかえ四囲よかかえもあるならの大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水がいたりして居る。馬牛の群の中を牛糞をけ、馬糞をまたぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠くろぬかの様にたかる。関翁が牧場記事の一節もうなずかれる。左程大くはないと云ってもたけ六尺はあるふきや、三尺も伸びたよもぎ、自然生の松葉独活アスパラガス、馬の尾についてえると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いのこみちを通って、斗満橋のたもとに出た。一坪程の小さな草舎くさやがある。屋後うしろには熊の髑髏あたまの白くなったのや、まだ比較的なましいのを突きしたさお、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩くまがりやとって置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。のぞいて見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
 駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸おおのこや嚢を背負い薬鑵をげた男女が、幾組も幾組も西へ通る。三井の伐木隊ばつぼくたいである。富源の開発も結構だが、ならはオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃くるみは銃床に、ドロはマッチの軸木じくぎになり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌さいきの眼を以て彼等を見送った。
 夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋ほうかいやの家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴げっきんを弾いてさかんおどった。
 夕食にまぐろ刺身さしみがつく。十年ぶりに海魚うみざかなの刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
 要するに斗満も開けたのである。
 九月二十七日。美晴。
 今日は斗満の上流ニオトマムに林学士りんがくし天幕てんとう日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君がおぶってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜とうなす真桑瓜まくわうり玉蜀黍とうもろこし甘藍きゃべつなぞを駄馬だばに積み、其上に打乗って先発する。仔馬こうまがヒョコヒョコついて行く。又一君も馬匹ばひつを見がてら阪の上まで送って来た。
 阪を上り果てゝ、かこいのトゲつき鉄線はりがねくぐり、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、れ離れ寝たり起きたり自在じざいに遊んで居る。此処ここはアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦へいたん高原こうげんの意。やゝ黄ばんだなら檞(かしわの大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方あち此方こちひくむらをなすはぎはすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとからから音おとを立てる。此萩の花ざかりにこまの悠遊する画趣がしゅが想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬におとらじと鼻孔びこうを開いて初秋高原清爽の気を存分ぞんぶんいつゝ、或は関翁と打語らい、或はもくして四辺あたりの景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬ぐんば補充部ほじゅうぶの山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋をめて居る。ふりかえって東を見れば、淕別谷りくんべつだにしきるヱンベツの山々をまえて、釧路くしろ雄阿寒おあかん雌阿寒めあかんが、一はたけのこのよう、他は菅笠すげがさのようななりをして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休ひとやすみしてまた行く。高原漸くせまって、北の片岨かたそばには雑木にまじって山桜やまざくらの紅葉したのが見える。桜花さくら見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
 やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下めした白樺しらかば簇立ぞくりつする谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹しんようじゅを語る印度藍色インジゴーいろの山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色すみれいろ微笑えみを浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚こうこつとして眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、あの奥にあるのだ。しかして関翁の夢魂むこん常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南カナン其処そこにある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した 淕別なんぞは最早もう久恋きゅうれんの地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心ゆうしんはとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢かいびゃく以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服にせて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中きょうちゅうをほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満とまむ上流の山谷さんこくを望んだ時、余は翁が心絃しんげんふるえをせつないほど吾むねに感じた。
 鉄線はりがねくぐって放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児むすこと各裸馬はだかうまに乗って来た。関翁が声をかける。路作りかたがた淕別りくんべつ まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼すみやきをする人そうな。やがて小さな流れに沿熊笹葺くまざさぶきの家に来た。炭焼君の家である。白樺しらかばの皮をかべにした殖民地式の小屋だが、内は可なりひろくて、たたみを敷き、奥に箪笥たんす柳行李やなぎごうりなどならべてある。妻君かみさんい顔をして居る。囲炉裏側いろりばたに腰かけて渋茶しぶちゃ馳走ちそうになって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
 茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙はりがみに、彼岸会ひがんえ説教せっきょう斗満寺とまむじと書いてある。斗満寺! 此処ここ其様そんなお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本をかかえて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂いわゆるお寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造そぞうな熊笹葺き、手際悪てぎわわるく張った壁の白樺赤樺あかかばの皮はっくりかえって居る。関翁を先頭せんとうにどやどや入ると、かたばかりのゆか荒莚あらむしろを敷いて、よごれた莫大小めりやすのシャツ一つた二十四五の毬栗頭いがぐりあたまの坊さんが、ちょこなんとすわって居る。うしろに、細君であろ、十八九のひっつめにって筒袖つつそで娘々むすめむすめした婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形ふくべがた南瓜かぼちゃや、馬鈴薯じゃがいもうずたかく積んである。奥の壁つきには六字名号みょうごうふくをかけ、御燈明おとうみょうの光ちらちら、真鍮しんちゅう金具かなぐがほのかに光って居る。みょうむねせまって来た。紙片しへんと鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係世並よなみ信常しんじょう、と書いてくれた。朝露のは子供にほんを教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱ごしんぼうなさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云ってわかれを告げる。戸外そとに紫の蝦夷菊えぞぎくが咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者えちごものなる炭焼小屋の主人あるじが招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家だんか一軒のお寺もゆかしいものである。
 樺林かばばやしひらいて、また一軒、熊笹と玉蜀黍とうもろこしからいた小舎こやがある。あたりにはかばったり焼いたりして、きびなど作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何どうしたかい、何故なぜ薬取りに来ない?」と怒鳴どなる。じいさんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児むすこが出て来る。翁は其肩をたゝき顔をのぞき込むようにして「如何どうだ、せきじいってるか。ウム、識ってるか」子供がにこにこ笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生やせい松葉独活アスパラガスが紅玉をちりばめて居る。不図白木の鳥居とりいが眼についた。見れば、子供がかかえて行ってしまいそうな小さな荒削あらけずりのほこらが枯草の中に立って居る。誰が何時いつ来て建てたのか。誰が何時来ておがむのか。西行さいぎょうならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、がけの下、小さなながれ沿うてまた一つ小屋がある。これが斗満最奥さいおく人家じんかで、駅逓えきていから此処ここまで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹ろうじゅが一株、大分紅葉もみじした枝を、ふり面白くさしべて居る小高いおかに来た。少し早いが此処で昼食ちゅうじきとする。人夫がふきの葉やよもぎ熊笹くまざさ引かゞってイタヤのかげに敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君のせなかから下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干うめぼしさい握飯にぎりめしを食う。流れは見えぬが、斗満とまむ川音かわおとは耳さわやかに、川向うに当る牧場内ぼくじょうないの雑木山は、の日をうけて、黄に紅に緑にえて居る。やがてこゝを立って小さな渓流けいりゅうを渡る時、一同石にひざまずいて清水しみずをむすぶ。
 最早もう人気ひとけは全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。たかなぞ落ちて居る。みちまれに渓流を横ぎり、多く雑木林ぞうきばやし穿うがち、時にじめじめした湿地ヤチを渉る。先日来の雨で、処々に水溜みずたまりが出来て居るが、天幕てんとの人達が熊笹を敷き、丸木まるきわたしなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終しじゅう一行いっこう殿しんがりとして、股引ももひき草鞋わらじしりひきからげてつえをおともにてくてくやって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、あと見るな見るなと手をふって、一本橋にも人手をらず、堅固けんごに歩いて来る。斯くて四里をあゆんで、午後の一時渓声けいせい響く処に鼠色ねずみいろ天幕てんまくが見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
 斗満川辺の少しばかりの平地をひらいて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。はやし林学士を統領とうりょうとして、属員ぞくいん人夫にんぷアイヌ約二十人、此春以来此処ここ本陣ほんじんとして、北見界きたみざかいかけ官有針葉樹林しんようじゅりんの調査をやって居るのである。別天地の小生涯しょうせいがい川辺かわべ風呂ふろ炊事場すいじばを設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄あさなわを張って洗濯物をし、少しの空地あきちには青菜あおなまで出来て居る。
 茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態せいたいを見に行く。はばけん程の急流に、ならの大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、こずえを踏み、終に枝を踏む軽業かるわざ、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際みぎわの雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐とうばつをやったな」と林学士が云う。胡桃くるみってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身をつつむ。蝦夷松えぞまつ椴松とどまつ、昔此辺の帝王ていおうであったろうと思わるゝ大木たおれて朽ち、朽ちた其木のかばねから実生みしょう若木わかぎ矗々すくすくと伸びて、若木其ものがけい一尺にあまるのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄やまぶどうからんだり、それ自身じしん針葉樹林の小模型しょうもけいとも見らるゝ、りょくかつおう、さまざまの蘚苔こけをふわりとまとうて居るのもある。其間をトマムの剰水あまり盆景ぼんけい千松島ちまつしまと云った様な緑苔こけかたまりめぐって、流るゝとはなく唯硝子がらすを張った様に光って居る。やがてふもとに来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松みねみねへといやが上に立ち重なって、日の目もれぬ。此辺はもうせき牧場ぼくじょうの西端になっていて、りんは直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明うすあかりの一端にたたずんで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝にまたがる針葉樹の処女林しょじょりんには、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方とほうに暮るゝことがある、其様そんな時には峰をじ、峰にひいずる蝦夷松椴松の百尺もある梢にましらの如く攀じのぼり、展望して方向をきめるのです、と。突然銃声じゅうせいが響いた。唯一発――あとはまたしんとなる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖などってもらって、天幕に帰る。
 勝手元かってもと御馳走ごちそう仕度したくだ。人夫がって来た茶盆大ちゃぼんだい舞茸まいたけは、小山の如くむしろまれて居る。やがて銃をうてアイヌが帰って来た。腰には山鳥やまどりを五羽ぶら下げて居る。また一人川下かわしもの方から釣棹つりざお肩に帰って来た。鯇(やまべ釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、たった一羽か」と云う。此も山鳥。先刻さっき聞いた銃声じゅうせいはてなのであろう。火をく、味噌みそる、魚鳥ぎょちょうを料理する、男世帯おとこじょたいの目つらをつかむ勝手元の忙しさを傍目よそめに、関翁はじめ余等一同、かわるがわる川畔かわばたに往って風呂の馳走ちそうになる。荒削あらけずりの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客おんなきゃくの為め、天幕てんまくのきれを屏風びょうぶがわりにれてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外はかば篝火かがり真昼まひるの様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかんかん炭火すみびおこして、ブツブツ切りにした山鳥や、尾頭おかしらつきの鯇(やまべ醤油したじひたしジュウジュウあぶっては持て、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸まいたけ味噌汁みそしるが来る。焚き立ての熱飯あつめしに、此山水の珍味ちんみえて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖けんたん思わず数碗すうわんかさねる。
 日はもうとっぷり暮れて、斗満とまむの川音が高くなった。幕外そとは耳もきれそうな霜夜しもよだが、帳内ちょうないは火があるので汗ばむ程の温気おんき。天幕の諸君はなおも馳走に薩摩さつま琵琶びわを持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興ごうきょうである。弾手ひきて林学士りんがくしが部下の塩田君しおだくん鹿児島かごしま壮士そうし。何をと問われて、取りあえず「城山しろやま」を所望しょもうする。今日きょうは九月二十七日、城山没落ぼつらくは三十三年前の再昨日さいさくじつであった。塩田君はやおら琵琶をかかえ、眼を半眼はんがんに開いて、がい一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「れ――達人たつじんは――」声はいさゝかふるえて響きはじめた。余は瞑目めいもくして耳をすます。「大隅山おおすみやまかりくらにィ――真如しんにょつきの――」弾手は蕭々しょうしょうと歌いすゝむ。「何をいかるやいかの――にわかげきする数千突如とつじょとして山くずれ落つ鵯越ひよどりごえ逆落さかおとし、四絃しげんはし撥音ばちおと急雨きゅううの如く、あっと思う間もなく身は悲壮ひそう渦中かちゅうきこまれた。時は涼秋りょうしゅうげつ、処は北海山中の無人境、篝火かがりびを焚く霜夜の天幕、まくそとには立聴くアイヌ、幕の内には隼人はやと薩摩さつま壮士おのこ神来しんらいきょうまさにおうして、歌ゆる時四絃続き、絃黙げんもくす時こえうたい、果ては声音せいおん一斉いっせい軒昂けんこう嗚咽おえつして、加之しかも始終しじゅう斗満川とまむがわ伴奏ばんそう。手をひざに眼をじて聴く八十一のおきなをはじめ、皆我を忘れて、「戎衣よろいそでをぬらしうらん」と結びの一句ひくむせんで、四絃一ばつ蕭然しょうぜんとしてきょく終るまで、息もつかなかった。讃辞さんじ謝辞しゃじ口をいて出る。天幕の外もさゞめいた。きょう未だ尽きぬので、今一つ「墨絵すみえ」の曲を所望する。終って此興趣きょうしゅ多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
 それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召おめしにつれて髭顔ひげがお二つランプの光にあらわれ、天幕の入口に蹲踞そんこした。若い方は、先刻さっき山鳥五羽うって来た白手しらで留吉とめきち、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯ごましおひげ胸にるゝ魁偉おおきなアイヌ、名は小川おがわヤイコク、これはあまり口がけぬ。アイヌの信仰しんこう葬式そうしきの事、二三風習ふうしゅうの質問などして、最後に、日本人シャモに不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人シャモのゴロツクがイヤだ」とき出す様に云った。ゴロツクは脅迫きょうはくの意味そうな。乳呑子ちのみご連れたメノコが来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味すごみがあるばかり、れい刺青いれずみもして居らず、毛繻子けじゅすえりがかゝった滝縞たきじま綿入わたいれなぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語をまじえて、何もないのでむらさきメレンスの風呂敷ふろしきをやった。
 惜しい夜もけた。手をきよめに出て見ると、樺の焚火たきびさがって、ほの白いけむり颺(げ、真黒な立木たちきの上には霜夜の星爛々らんらんと光って居る。何処どこかの天幕でぱっと火光あかりがさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入ってしまった。川音が颯々さあさあと嵐の様にひびく。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き聞き趣おもむき深い天幕の夢を結んだ。
 九月二十八日。微雨。
 関翁は起きぬけに川に灌水かんすいかれた。
 朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路にく。成程なるほどニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満とまむを去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚遺憾のこり多かった。
 帰路きろ余は少し一行におくれて、林中りんちゅうにサビタのステッキをった。足音がするのでふっと見ると、むこうのこみちをアイヌが三人歩いて来る。真先まっさきかの留吉とめきち、中にお花さんが甲斐甲斐(かいがい)しく子をって、最後に彼ヤイコクがアツシを藤蔓ふじづるんだくつ穿き、マキリをいて、大股おおまたに歩いて来る。余は木蔭からまたたきもせず其行進マアチを眺めた。秋びた深林しんりん背景はいけいに、何と云う好調和こうちょうわであろう。彼等アイヌはほろび行く種族しゅぞく看做みなされて居る。然し此森林しんりんに於て、彼等はまさあるじである。眼鏡めがねやリボンの我等は畢竟ひっきょう新参しんざん侵入者しんにゅうしゃに過ぎぬ。余はことに彼ヤイコクが五束いつつかもある鬚髯しゅぜん蓬々ぼうぼうとしてむねれ、素盞雄尊すさのおのみことを見る様な六尺ゆたかな堂々どうどう雄偉ゆうい骨格こっかく悲壮ひそう沈欝ちんうつな其眼光まなざし熟視じゅくしした時、優勝者と名のある掠奪者りゃくだつしゃが大なる敗者はいしゃに対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄やまぶどうなどちぎるとさるに対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワをっては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊一変いっぺんせばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人シャモに到らん、日本人シャモ一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
 天幕を出る時ぽとぽと落ちて居た雨はみ、かさす程にもなかった。炭焼君すみやきくんの家で昼の握飯にぎりめしを食って、放牧場ほうぼくじょうはしから二たび斗満上流じょうりゅう山谷さんこくを回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子をいて駄馬だばに乗った。貢君みつぎくん口綱くちづなをとって行く。後から仔馬こうまがひょこひょこ跟いて行く。時々道草を食っておくれては、あわてゝけ出しおっついて母馬はは横腹よこはらあたまをすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時駅逓えきていに帰った。
 関翁は過日来足痛そくつうすこぶる行歩ぎょうぶなやんで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子ようすも見せず、若い者なみに四里の往復は全く恐れ入った。
 此夕台所だいどこで大きな甘藍きゃべつはかりにかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植いしょくもせぬのだから驚く。関翁が家の馳走ちそうで、甘藍の漬物つけもの五升藷ごしょういも馬鈴薯じゃがいも)の味噌汁みそしるは特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆えだまめ玉蜀黍とうもろこし、馬鈴薯、南瓜とうなす蕎麦そば大根だいこきびもち、何れも中々味が好い。唯真桑瓜まくわうりは甘味が足らぬ。
 九月二十九日。晴。
 今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外らちそとを南へ下り、ニタトロマップの細流さいりゅうを渡り、斗満殖民地入口と筆太ふでぶとに書いた棒杭ぼうぐいを右に見て、上利別かみとしべつ原野げんやに来た。野中のなかおかに、ぽつりぽつり小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭ふしここたんの教授所を見る。代用小学校である。かたの如き草葺くさぶきの小屋、子供は最早帰って、田村たむら恰人まさとと云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別としべつ川辺かわべ模範もはん農夫のうふの宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となくうるおうて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中蔬菜そさいかこあなぐらを設け、農具のうぐ漁具ぎょぐ雪中用具せっちゅうようぐそれぞれならべて、横手よこての馬小屋には馬が高くいなないて居る。にがちゃれて、森永もりながのドロップスなど出してくれた。余等は注文ちゅうもんしてもぎ立ての玉蜀黍をの火で焼いてもらう。あるじは岡山県人、四十余の細作ほそづくりな男、余作君に過日こないだくすりは強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無いちもんなしで渡道とどうし、関家に奉公中貯蓄ちょちくした四十円を資本とし、ひらけの約束で数年前此原野を開墾かいこんしはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入みいりがあろうと云うことであった。細君の阿爺ちゃん遙々はるばる讃岐さぬきから遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜まくわうりつるの上に沢山ころがり、段落だんおちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆だいずうねから畝にさやをつらねて、こころみに其一個をいて見ると、豆粒つぶ肥大ひだい実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍をい喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実にうまい。先年皇太子殿下(今上きんじょう陛下へいか)が釧路くしろで玉蜀黍をしてそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたももっともである。
 午後は又一君の案内で、アイヌの古城址こじょうしなるチャシコツを見る。淕別川りくんべつがわに臨んだちょっとした要害ようがいの地、川の方は断崖だんがいになり、うしろはザッとしたものながら、塹濠ざんごうをめぐらしてある。此処から見ると淕別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠しょうしてゝ斃死へいしした牛馬のれいまつるつもりで居る。
 夕方三人で又一君宅の風呂ふろをもらいに行く。実は過日来往返おうへんたび斗満橋とまむばしの上から見てうらやましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端かわばたで、露天ろてんえてある。水に強いと云うかつらわたり二尺余のりぬき、鉄板てっぱんそこき、其上に踏板ふみいたを渡したもので、こんな簡易かんい贅沢ぜいたくな風呂には、北海道でなければ滅多めったに入られぬ。秋の日落ち谷蒼々そうそうと暮るゝゆうべ、玉の様な川水をわかした湯にくびまでひたって、直ぐそばを流るる川音を聴いて居ると、陶然とうぜんとして即身成仏そくしんじょうぶつ妙境みょうきょうって了う。
 夜上利別かみとしべつのマッチ製軸所せいじくしょ支配人久禰田くねだ孫兵衛まごべえ君に面会。もと小学教師をした淡路あわじの人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終しじゅう関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下駅逓えきていの人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷をむるあお朝霧あさぎりの中に、関翁は此方に向い、つえかしらに両手をんで其上にひたい押付おしつけて居られた。
 淕別で余作君に別れ、足寄駅あしょろえきで五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅たかしまえきで又一君に別れ、池田駅で旭川行あさひかわゆきの汽車に乗換え、帯広おびひろで貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮ゆうぐれ十勝とかち国境こっきょう白茅はくぼうの山を石狩いしかりの方へとのぼった。此処の眺望ながめは全国の線路にほとんど無比である。越しかたかえりみれば、眼下がんかに展開する十勝の大平野だいへいやは、蒼茫そうぼうとして唯くもの如くまた海の如く、かえって北東の方を望めば、黛色たいしょく連山れんざん波濤はとうの如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁しょうへきの如く取囲とりかこむ山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓にって久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯いっぽう特立とくりつすこぶる異彩いさいある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川とまむがわの水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢ろうれい已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西モーゼの如く、はるか迦南カナンを望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者のからだって復活し、必彼山を越え、必彼大無人境をひらくであろう。汽車はますます国境の山を上る。尾花に残る日影ひかげは消え、蒼々そうそうと暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余はなお窓に凭って眺める。突然白いものが目の前にひらめく。はっと思って見れば、老木ろうぼくこずえである。年久しく風霜ふうそうと闘うてかわは大部分げ、葉も落ちて、老骨ろうこつ稜々りょうりょうたる大蝦夷松おおえぞまつが唯一つ峰に突立つったって居るのであった。
 余の胸は一ぱいになった。
  君に別れ十勝の国の国境くにざかひ
     今ゆるとてふりかへり見し
  かへりれば十勝は雲になりにけり
     心に響く斗満とま川音かはおと
  雲か山か夕霧ゆふぎり遠くへだてにし
     おきなうへかみまもりませ
 斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩いしかり鹿越駅しかごええきで関翁あて投函とうかんした。」

       三

 武蔵野の彼等が斗満をうた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度粕谷かすや茅廬ぼうろに遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人あるじは甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るからかまわず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用をしてもどりかけると、馬車はすれちがいに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽なかおれぼうをかぶって、れいくせ下顋したあごを少し突出し、れ手拭を入れた護謨ごむふくろをぶらげながら、例の足駄あしだでぽッくりぽッくり刻足きざみあしに翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼無地むじの木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手をる。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意こんいの車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
 翁は斗満に帰ってから、実桜チェリーなえ二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚がんだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其翌日よくじつも雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
  去年こぞ今日けふくはりきとあきの雨
     眺めて独君をしぞおもふ
 程なく翁から其雑著ざっちょ出版しゅっぱんの事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰ったかりがまた武蔵野の空にく時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期かくごをした様であったが、年と共にたまあらたに元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水かんすいをはじめ、例の細字さいじの手紙、著書の巻首かんしゅに入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布はいふす可き二百幾名の住所姓名を一々明細めいさいに書いて来た。翁にとりては此が形見かたみのつもりであったのである。
いのち洗濯せんたく」「いのち鍛錬たんれん」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満とまむ漫吟まんぎん」をまとめて一さつとした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店けいせいしゃしょてんから発行された。翁は其出版を見ていささかよろこびの言をらしたが、五月初旬にはいよいよ死を決したと見えて、逗子ずしなる老父のもと粕谷かすやの其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十のいわいに出来た関牧場の画模様えもよう服紗ふくさと、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々うたおよび俳句はいく自署じしょしたものであった。両家族の者残らずにてゝ、各別かくべつに名前を書いてあった。「人並ひとなみの道はとおらぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊たんざくには、
  辞世 一 もろともにちぎりし事はなかばにて
     斗満とまむの露と消えしこの身は
                    八十三老白里
  辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
     永く祈らん斗満とまにぎはひ
                    八十三老白里
  死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
     落れば土と飛んでそらまで
                    八十三老白里
  死後希望 死出しでの山越えて後にぞ楽まん
     富士の高根たかねを目の下に見て
                    八十三老白里

           *

 七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末しょまつに左の三首の歌があった。
  寄川恋
  我恋は斗満とまむの川の水の音
    夜ひるともにやむひまぞなき
  病床独吟
  憂き事の年をかさねて八十三やそみとせ
    尽きざる罪になほなやみつゝ
  死後希望
  身は消えて心はうつるキトウスと
    十勝石狩両たけのかひ
翁の絶筆ぜっぴつであった。

       四

 翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流にのみやりゅうに与えんと欲し、子は米国風べいこくふうに富まんことを欲した。そのため関家のあらそいは、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起ひきおこした。翁は其為に心身の精力を消磨しょうました。然し翁はみずから信ずることあつく、子を愛すること深く、神明しんめいに祈り、死を決して其子をす可く努めた。
 最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満とまむおとずれた其二周年が来た。かりは二たび武蔵野の空にいた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御ほうぎょ乃木翁のぎおう自刃じじん、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁びょうおうに如何にひびいたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移おしうつって居る内に、突然翁の訃報ふほうが来た。
 翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終りんじゅうには、かたちに於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而していずれにもない苦しみがあった。然し今はつまびらかに説く可き場合でない。
 翁の歌に、
  遠く見て雲か山かと思ひしに
     帰ればおのが住居すまひなりけり
 遮莫さもあらばあれ永い年月としつき行路難こうろだん遮莫さもあらばあれ末期まつご十字架のくるしみ、翁は一切いっさいを終えて故郷ふるさとに帰ったのである。





底本:「みみずのたはこと(上)」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
   1996(平成8)年12月10日第30刷(入力)
   2001(平成13)年11月7日第32刷(校正)
  「みみずのたはこと(下)」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年6月1日第1刷発行
   1996(平成8)年12月10日第25刷(入力)
   2001(平成13)年11月7日第27刷(入力、校正)
底本の親本:「みみずのたはこと」岩波書店
   1933(昭和8)年刊
元ファイルの入力:奥村正明、小林繁雄
元ファイルの校正:小林繁雄

●表記について
「くの字点」は前の文字列を繰り返しました。
「にすい+坴」は、表示の都合で「淕」に置きかえました。
「さんずい+回」は、表示の都合で「廻」に置きかえました。
このファイルは、青空文庫のファイルを利用して作りました。――栽培生活・田舎の貸し本屋さん
栽培生活芽には芽を葉には葉を
徳冨健次郎「みみずのたはこと」