関寛翁
一
明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋に些の疎髯をヒラヒラさせ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我を折った。
兎も角も上に請じ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごりごりした無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作もないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官と反りが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々として仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼共に健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老いの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、型の如く突然たるものであった。
爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙に蠅頭の細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端な彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざわざ来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇、萩のステッキ、鶉豆なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南の老父に此爺さんの噂をしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺って居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊の砌老父が許に立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りに促す。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
左に掲ぐるは、訪問記の数節である。
二
「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川の谷を北へ北へまた北へ北へと駛って、夕の四時淕別駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走線が淕別まで開通した開通式の翌々日である。
今にはじめぬ鉄道の幻術、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く淕別に、最早人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす淕別館の片隅で、祝の赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘を翳してあとにつき、斗満の関牧場さして出かける。
新開町の雑沓を後にして、道は直ぐ西に蒼い黄昏の煙に入った。やがて橋を渡る。淕別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫の話を聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨は止んで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風か。否、松風でない。峰の嵐でもない。水声である。余は耳を澄ました。何と云う爽な音か。此世の声で無い。確に別天地から通うて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしい音である。人夫にきくと、果して斗満川であった。やがて道は山側をめぐってだらだら下りになった。水声の方からぱっと火光がさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声がして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側の矮い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声に架す橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤドヤ戸口から入ると、眩しい洋燈の光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払いと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」
*
九月二十五日。雨。
爺さんでは長過ぎる。不躾でもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓で、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建て離しの納屋、浴室、窖室もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸、山から引いたのと二通りもあって、贅沢はないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向にあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢を拓いて牛馬舎一棟、人の住む矮い草舎が一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨を滴らして居る。
駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓から形ばかり埒を結った自然のまゝの小庭や甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉榲邨の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼いて神明に祈り、机の前に端座して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
落つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さまざまの話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利くそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指の尖が左の方に向って鉤形に曲って居る。打診に精神がこもる証拠だ。乃公の打診は何処をたゝいても患者の心臓にピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものを抱えて来た。関家の定紋九曜を刳りぬいた白木の龕で、あなたが死ぬ時一処に牧場に埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮と云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道足寄郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎を訪われたのも、実は五郎君の勧であった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。披いて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家に頒つ刷物である。
日々の心得の事
一 一家和合して先祖を祭り老人を敬うべし
一 朝は早く起き家業に就き夜は早く寝につくべし
一 諸上納は早く納むべし
一 金銭取引の勘定は時々致すべし
一 他人と寄合の時或は時間の定ある時は必ず守るべし
一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
一 偽言は一切いうべからず
一 火の要心を怠るべからず
一 掃除に成丈注意すべし
一 流し元と掃溜とは気をつけて衛生に害なきよう且肥料にすべき事
一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
一 喰物はむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
一 買物は前以て価を聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着は木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具は錆ぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人の子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品を借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
明治四十三年
翁はもともと我利から広大の牧場地を願下げたと思わるゝを心から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療を受けに利別から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚を見せろ、と翁が云う。体が臭いからとモジモジするのを無理やりに帯解かせる。上半身が露われた。正に熊だ。腹毛胸毛はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃもじゃ渦まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々感嘆して見惚れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶が並んだ次の間に調剤に入った。
河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗な縞栗鼠が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだまだ山の中だ。
四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水して床に入るのが、翁の常例だそうな。
夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後哈爾賓で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞かき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶ頬の殺げたきかぬ気らしい細君は、モンペ袴をはいて甲斐甲斐しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。 淕別は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄にかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。鮭、鱒、なぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝ例にもなる山鳥の塩焼にも饜いて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人を避くることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先にはさまった豆粒を噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠を提げると重たい開墾鍬がぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人の留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡本別村の役場までの十余里はまだ可として、釧路の白糠村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙が来てものこのこ出かけて行かねばならなかった話。珍な話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒が鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦が妬ましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
九月廿六日。霽。
翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人淕別
の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺の此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯を食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪が山のように積んである。此辺は蕨を下草にした楢の小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐ傍を流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角をめぐって少し往くと、山際に草葺のあばら舎がある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側に移ったそうな。何時の間にか淕別谷別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓から十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、
淕別川クンボベツ川斗満川の相会する淕
を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川の谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大鎌状をなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、
淕別駅別停車場及淕別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して淕となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅六七間もあろうか。 淕別橋から瞰むる
淕別川の川床荒れて水の濁れるに引易え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺く礫の上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影紊して駛り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満の水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は
淕別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。然もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水が山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、斧で氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場出の壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕を張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
昨夕来泊した若年の測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめまめしく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だと賞める。
午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内に入る。東向きの山腹、三囲四囲もある楢の大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水が湧いたりして居る。馬牛の群の中を牛糞を避け、馬糞を跨ぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠の様にたかる。関翁が牧場記事の一節も頷かれる。左程大くはないと云っても長六尺はある蕗や、三尺も伸びた蓬、自然生の松葉独活、馬の尾について殖えると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いの径を通って、斗満橋の袂に出た。一坪程の小さな草舎がある。屋後には熊の髑髏の白くなったのや、まだ比較的生しいのを突き刺した棹、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩に雇って置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。覗て見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸や嚢を背負い薬鑵を提げた男女が、幾組も幾組も西へ通る。三井の伐木隊である。富源の開発も結構だが、楢の木はオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃は銃床に、ドロはマッチの軸木になり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌の眼を以て彼等を見送った。
夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋の家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴を弾いて盛に踊った。
夕食に鮪の刺身がつく。十年ぶりに海魚の刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
要するに斗満も開けたのである。
九月二十七日。美晴。
今日は斗満の上流ニオトマムに林学士の天幕を訪う日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君が負ってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜、真桑瓜、玉蜀黍、甘藍なぞを駄馬に積み、其上に打乗って先発する。仔馬がヒョコヒョコついて行く。又一君も馬匹を見がてら阪の上まで送って来た。
阪を上り果てゝ、囲いのトゲ付鉄線を潜り、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、群れ離れ寝たり起きたり自在に遊んで居る。此処はアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦な高原の意。やゝ黄ばんだ楢、の大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方此方に矮い叢をなす萩はすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとからから音を立てる。此萩の花ざかりに駒の悠遊する画趣が想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬に劣らじと鼻孔を開いて初秋高原清爽の気を存分に吸いつゝ、或は関翁と打語らい、或は黙して四辺の景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬補充部の山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋を染めて居る。ふりかえって東を見れば、淕別谷を劃るヱンベツの山々を踏まえて、釧路の雄阿寒、雌阿寒が、一は筍のよう、他は菅笠のような容をして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休してまた行く。高原漸く蹙って、北の片岨には雑木にまじって山桜の紅葉したのが見える。桜花見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下に白樺の簇立する谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹を語る印度藍色の山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色の微笑を浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚として眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、彼奥にあるのだ。而して関翁の夢魂常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南は其処にある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した
淕別なんぞは最早久恋の地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心はとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服に駛せて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中の秘をほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満上流の山谷を望んだ時、余は翁が心絃の震えを切ないほど吾心に感じた。
鉄線を潜って放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児と各裸馬に乗って来た。関翁が声をかける。路作りかたがた淕別
まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼をする人そうな。やがて小さな流れに沿う熊笹葺きの家に来た。炭焼君の家である。白樺の皮を壁にした殖民地式の小屋だが、内は可なり濶くて、畳を敷き、奥に箪笥柳行李など列べてある。妻君も善い顔をして居る。囲炉裏側に腰かけて渋茶の馳走になって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙に、彼岸会説教、斗満寺と書いてある。斗満寺! 此処に其様なお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本を抱えて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂お寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造な熊笹葺き、手際悪く張った壁の白樺赤樺の皮は反っくりかえって居る。関翁を先頭にどやどや入ると、形ばかりの床に荒莚を敷いて、汚れた莫大小のシャツ一つ着た二十四五の毬栗頭の坊さんが、ちょこなんと座って居る。後に、細君であろ、十八九の引つめに結って筒袖の娘々した婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形南瓜や、馬鈴薯を堆く積んである。奥の壁つきには六字名号の幅をかけ、御燈明の光ちらちら、真鍮の金具がほのかに光って居る。妙に胸が迫って来た。紙片と鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係世並信常、と書いてくれた。朝露の間は子供に書を教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱なさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云って別を告げる。戸外に紫の蝦夷菊が咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者なる炭焼小屋の主人が招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家一軒のお寺もゆかしいものである。
樺林を拓いて、また一軒、熊笹と玉蜀黍の稈で葺いた小舎がある。あたりには樺を伐ったり焼いたりして、黍など作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何したかい、何故薬取りに来ない?」と怒鳴る。爺さんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児が出て来る。翁は其肩をたゝき顔を覗き込むようにして「如何だ、関の爺を識ってるか。ウム、識ってるか」子供がにこにこ笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生松葉独活の実が紅玉を鏤めて居る。不図白木の鳥居が眼についた。見れば、子供が抱えて行って了いそうな小さな荒削りの祠が枯草の中に立って居る。誰が何時来て建てたのか。誰が何時来て拝むのか。西行ならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、崖の下、小さな流に沿うてまた一つ小屋がある。これが斗満最奥の人家で、駅逓から此処まで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹が一株、大分紅葉した枝を、振面白くさし伸べて居る小高い丘に来た。少し早いが此処で昼食とする。人夫が蕗の葉や蓬、熊笹引かゞってイタヤの蔭に敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君の背から下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干菜で握飯を食う。流れは見えぬが、斗満の川音は耳爽に、川向うに当る牧場内の雑木山は、午の日をうけて、黄に紅に緑に燃えて居る。やがてこゝを立って小さな渓流を渡る時、一同石に跪いて清水をむすぶ。
最早人気は全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。鷹の羽なぞ落ちて居る。径は稀に渓流を横ぎり、多く雑木林を穿ち、時にじめじめした湿地を渉る。先日来の雨で、処々に水溜が出来て居るが、天幕の人達が熊笹を敷き、丸木を渡しなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終一行の殿として、股引草鞋尻引からげて杖をお伴にてくてくやって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、後見るな見るなと手をふって、一本橋にも人手を仮らず、堅固に歩いて来る。斯くて四里を歩んで、午後の一時渓声響く処に鼠色の天幕が見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
斗満川辺の少しばかりの平地を拓いて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。林林学士を統領として、属員人夫アイヌ約二十人、此春以来此処を本陣として、北見界かけ官有針葉樹林の調査をやって居るのである。別天地の小生涯、川辺に風呂、炊事場を設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄を張って洗濯物を乾し、少しの空地には青菜まで出来て居る。
茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態を見に行く。濶五間程の急流に、楢の大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、梢を踏み、終に枝を踏む軽業、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際の雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐をやったな」と林学士が云う。胡桃が伐ってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身を包む。蝦夷松や椴松、昔此辺の帝王であったろうと思わるゝ大木倒れて朽ち、朽ちた其木の屍から実生の若木が矗々と伸びて、若木其ものが径一尺に余るのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄が絡んだり、其自身針葉樹林の小模型とも見らるゝ、緑、褐、紫、黄、さまざまの蘚苔をふわりと纏うて居るのもある。其間をトマムの剰水が盆景の千松島と云った様な緑苔の塊を廻って、流るゝとはなく唯硝子を張った様に光って居る。やがて麓に来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松峯へ峰へと弥が上に立ち重なって、日の目も漏れぬ。此辺はもう関牧場の西端になっていて、林は直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明の一端に佇んで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝に跨る針葉樹の処女林には、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方に暮るゝことがある、其様な時には峰を攀じ、峰に秀ずる蝦夷松椴松の百尺もある梢に猿の如く攀じ上り、展望して方向をきめるのです、と。突然銃声が響いた。唯一発――あとはまた森となる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖など伐ってもらって、天幕に帰る。
勝手元は御馳走の仕度だ。人夫が採って来た茶盆大の舞茸は、小山の如く莚に積まれて居る。やがて銃を負うてアイヌが帰って来た。腰には山鳥を五羽ぶら下げて居る。また一人川下の方から釣棹肩に帰って来た。釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、唯一羽か」と云う。此も山鳥。先刻聞いた銃声の果なのであろう。火を焚く、味噌を摺る、魚鳥を料理する、男世帯の目つらを抓む勝手元の忙しさを傍目に、関翁はじめ余等一同、かわるがわる川畔に往って風呂の馳走になる。荒削りの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客の為め、天幕のきれを屏風がわりに垂れてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外は樺の篝火が真昼の様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかんかん炭火を熾して、ブツブツ切りにした山鳥や、尾頭つきのを醤油に浸しジュウジュウ炙っては持て来、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸の味噌汁が来る。焚き立ての熱飯に、此山水の珍味を添えて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖思わず数碗を重ねる。
日はもうとっぷり暮れて、斗満の川音が高くなった。幕外は耳もきれそうな霜夜だが、帳内は火があるので汗ばむ程の温気。天幕の諸君は尚も馳走に薩摩琵琶を持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興である。弾手は林学士が部下の塩田君、鹿児島の壮士。何をと問われて、取りあえず「城山」を所望する。今日は九月二十七日、城山没落は三十三年前の再昨日であった。塩田君はやおら琵琶を抱え、眼を半眼に開いて、咳一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「夫れ――達人は――」声はいさゝか震えて響きはじめた。余は瞑目して耳をすます。「大隅山の狩くらにィ――真如の月の――」弾手は蕭々と歌いすゝむ。「何を怒るや怒り猪の――俄に激する数千騎」突如として山崩れ落つ鵯越の逆落し、四絃を奔る撥音急雨の如く、呀と思う間もなく身は悲壮渦中に捲きこまれた。時は涼秋九月、処は北海山中の無人境、篝火を焚く霜夜の天幕、幕の外には立聴くアイヌ、幕の内には隼人の薩摩壮士が神来の興まさに旺して、歌断ゆる時四絃続き、絃黙す時声謡い、果ては声音一斉に軒昂嗚咽して、加之始終斗満川の伴奏。手を膝に眼を閉じて聴く八十一の翁をはじめ、皆我を忘れて、「戎衣の袖をぬらし添うらん」と結びの一句低く咽んで、四絃一撥蕭然として曲終るまで、息もつかなかった。讃辞謝辞口を衝いて出る。天幕の外もさゞめいた。興未だ尽きぬので、今一つ「墨絵」の曲を所望する。終って此興趣多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召につれて髭顔二つランプの光に現われ、天幕の入口に蹲踞した。若い方は、先刻山鳥五羽うって来た白手留吉、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯胸に垂るゝ魁偉なアイヌ、名は小川ヤイコク、これはあまり口が利けぬ。アイヌの信仰、葬式の事、二三風習の質問などして、最後に、日本人に不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人のゴロツクがイヤだ」と吐き出す様に云った。ゴロツクは脅迫の意味そうな。乳呑子連れた女が来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味があるばかり、例の刺青もして居らず、毛繻子の襟がかゝった滝縞の綿入なぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語を交えて、何もないので紫メレンスの風呂敷をやった。
惜しい夜も更けた。手を浄めに出て見ると、樺の焚火は燃え下って、ほの白い煙をげ、真黒な立木の上には霜夜の星爛々と光って居る。何処かの天幕でぱっと火光がさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入って了った。川音が颯々と嵐の様に響く。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き聞き趣深い天幕の夢を結んだ。
九月二十八日。微雨。
関翁は起きぬけに川に灌水に行かれた。
朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路に就く。成程ニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満を去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚遺憾多かった。
帰路余は少し一行に後れて、林中にサビタのステッキを伐った。足音がするのでふっと見ると、向うの径をアイヌが三人歩いて来る。真先が彼留吉、中にお花さんが甲斐甲斐しく子を負って、最後に彼ヤイコクがアツシを着、藤蔓で編んだ沓を穿き、マキリを佩いて、大股に歩いて来る。余は木蔭から瞬きもせず其行進を眺めた。秋寂びた深林の背景に、何と云う好調和であろう。彼等アイヌは亡び行く種族と看做されて居る。然し此森林に於て、彼等は正に主である。眼鏡やリボンの我等は畢竟新参の侵入者に過ぎぬ。余は殊に彼ヤイコクが五束もある鬚髯蓬々として胸に垂れ、素盞雄尊を見る様な六尺ゆたかな堂々雄偉の骨格と悲壮沈欝な其眼光を熟視した時、優勝者と名のある掠奪者が大なる敗者に対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄などちぎると猿に対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワを採っては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊一変せばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人に到らん、日本人一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
天幕を出る時ぽとぽと落ちて居た雨は止み、傘を翳す程にもなかった。炭焼君の家で昼の握飯を食って、放牧場の端から二たび斗満上流の山谷を回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子を抱いて駄馬に乗った。貢君が口綱をとって行く。後から仔馬がひょこひょこ跟いて行く。時々道草を食って後れては、遽てゝ駈け出し追ついて母馬の横腹に頭をすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時駅逓に帰った。
関翁は過日来足痛で頗行歩に悩んで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子も見せず、若い者並に四里の往復は全く恐れ入った。
此夕台所で大きな甘藍を秤にかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植もせぬのだから驚く。関翁が家の馳走で、甘藍の漬物に五升藷(馬鈴薯)の味噌汁は特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆、玉蜀黍、馬鈴薯、南瓜、蕎麦、大根、黍の餅、何れも中々味が好い。唯真桑瓜は甘味が足らぬ。
九月二十九日。晴。
今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外を南へ下り、ニタトロマップの細流を渡り、斗満殖民地入口と筆太に書いた棒杭を右に見て、上利別原野に来た。野中、丘の根に、ぽつりぽつり小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭の教授所を見る。代用小学校である。型の如き草葺の小屋、子供は最早帰って、田村恰人と云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別川辺に模範農夫の宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となく潤うて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中蔬菜を囲う窖を設け、農具漁具雪中用具それぞれ掛け列べて、横手の馬小屋には馬が高く嘶いて居る。苦い茶を点れて、森永のドロップスなど出してくれた。余等は注文してもぎ立ての玉蜀黍を炉の火で焼いてもらう。主は岡山県人、四十余の細作りな男、余作君に過日の薬は強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無しで渡道し、関家に奉公中貯蓄した四十円を資本とし、拓き分けの約束で数年前此原野を開墾しはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入があろうと云うことであった。細君の阿爺が遙々讃岐から遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜が蔓の上に沢山ころがり、段落ちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆は畝から畝に莢をつらねて、試に其一個を剖いて見ると、豆粒の肥大実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍を喰い喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実に甘い。先年皇太子殿下(今上陛下)が釧路で玉蜀黍を召してそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたも尤である。
午後は又一君の案内で、アイヌの古城址なるチャシコツを見る。淕別川に臨んだちょっとした要害の地、川の方は断崖になり、後はザッとしたものながら、塹濠をめぐらしてある。此処から見ると淕別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠を建てゝ斃死した牛馬の霊を祭るつもりで居る。
夕方三人で又一君宅の風呂をもらいに行く。実は過日来往返の毎に斗満橋の上から見て羨ましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端で、露天に据えてある。水に強いと云う桂の径二尺余の刳りぬき、鉄板を底に鋪き、其上に踏板を渡したもので、こんな簡易な贅沢な風呂には、北海道でなければ滅多に入られぬ。秋の日落ち谷蒼々と暮るゝ夕、玉の様な川水を沸した湯に頸まで浸って、直ぐ傍を流るる川音を聴いて居ると、陶然として即身成仏の妙境に入って了う。
夜上利別のマッチ製軸所支配人久禰田孫兵衛君に面会。もと小学教師をした淡路の人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終関翁の話を聞きに来るそうだ。
九月三十日。晴。雪のような朝霜。
最早斗満を去らねばならぬ日となった。
早朝関翁以下駅逓の人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷を罩むる碧い朝霧の中に、関翁は此方に向い、杖の頭に両手を組んで其上に額を押付けて居られた。
淕別で余作君に別れ、足寄駅で五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅で又一君に別れ、池田駅で旭川行の汽車に乗換え、帯広で貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮に十勝国境の白茅の山を石狩の方へと上った。此処の眺望は全国の線路に殆んど無比である。越し方を顧みれば、眼下に展開する十勝の大平野は、蒼茫として唯雲の如くまた海の如く、却て北東の方を望めば、黛色の連山波濤の如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁の如く取囲む山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓に凭って久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯特立頗異彩ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西の如く、遙に迦南を望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者の体を仮って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓くであろう。汽車はますます国境の山を上る。尾花に残る日影は消え、蒼々と暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余は猶窓に凭って眺める。突然白いものが目の前に閃めく。はっと思って見れば、老木の梢である。年久しく風霜と闘うて皮は大部分剥げ、葉も落ちて、老骨稜々たる大蝦夷松が唯一つ峰に突立って居るのであった。
余の胸は一ぱいになった。
君に別れ十勝の国の国境
今越ゆるとてふりかへり見し
かへり見れば十勝は雲になりにけり
心に響く斗満の川音
雲か山か夕霧遠く隔てにし
翁が上を神護りませ
斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩の鹿越駅で関翁宛に投函した。」
三
武蔵野の彼等が斗満を訪うた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度粕谷の茅廬に遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人は甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るから構わず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用を達して戻りかけると、馬車はすれ違いに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽をかぶって、例の癖で下顋を少し突出し、濡れ手拭を入れた護謨の袋をぶら提げながら、例の足駄でぽッくりぽッくり刻足に翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼無地の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
翁は斗満に帰ってから、実桜の苗二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其翌日も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
去年の今日も斯くは降りきと秋の雨
眺めて独君をしぞおもふ
程なく翁から其雑著出版の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁がまた武蔵野の空に来鳴く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期をした様であったが、年と共に玉の緒新に元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水をはじめ、例の細字の手紙、著書の巻首に入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布す可き二百幾名の住所姓名を一々明細に書いて来た。翁にとりては此が形見のつもりであったのである。
「命の洗濯」「命の鍛錬」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満漫吟」をまとめて一冊とした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店から発行された。翁は其出版を見て聊喜の言を漏らしたが、五月初旬には愈死を決したと見えて、逗子なる老父の許と粕谷の其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十の祝に出来た関牧場の画模様の服紗と、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々歌及俳句を自署したものであった。両家族の者残らずに宛てゝ、各別に名前を書いてあった。「人並の道は通らぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊には、
辞世 一 諸ともに契りし事は半にて
斗満の露と消えしこの身は
八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
永く祈らん斗満の賑
八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
落れば土と飛んでそらまで
八十三老白里
死後希望 死出の山越えて後にぞ楽まん
富士の高根を目の下に見て
八十三老白里
*
七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末に左の三首の歌があった。
寄川恋
我恋は斗満の川の水の音
夜ひるともにやむひまぞなき
病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三とせ
尽きざる罪になほ悩みつゝ
死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
十勝石狩両たけのかひ
翁の絶筆であった。
四
翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流に与えんと欲し、子は米国風に富まんことを欲した。其為関家の諍は、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起した。翁は其為に心身の精力を消磨した。然し翁は自ら信ずること篤く、子を愛すること深く、神明に祈り、死を決して其子を度す可く努めた。
最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満を訪れた其二周年が来た。雁は二たび武蔵野の空に来鳴いた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御、乃木翁の自刃、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁に如何に響いたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移って居る内に、突然翁の訃報が来た。
翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終には、形に於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而して何れにもない苦しみがあった。然し今は詳に説く可き場合でない。
翁の歌に、
遠く見て雲か山かと思ひしに
帰ればおのが住居なりけり
遮莫永い年月の行路難、遮莫末期十字架の苦、翁は一切を終えて故郷に帰ったのである。
底本:「みみずのたはこと(上)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
1996(平成8)年12月10日第30刷(入力)
2001(平成13)年11月7日第32刷(校正)
「みみずのたはこと(下)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年6月1日第1刷発行
1996(平成8)年12月10日第25刷(入力)
2001(平成13)年11月7日第27刷(入力、校正)
底本の親本:「みみずのたはこと」岩波書店
1933(昭和8)年刊
元ファイルの入力:奥村正明、小林繁雄
元ファイルの校正:小林繁雄
●表記について
「くの字点」は前の文字列を繰り返しました。
「にすい+坴」は、表示の都合で「淕」に置きかえました。
「さんずい+回」は、表示の都合で「廻」に置きかえました。
このファイルは、青空文庫のファイルを利用して作りました。――栽培生活・田舎の貸し本屋さん
