彼は江戸生れであった
昌益の末孫はどこにいる?
一 緒言
日本が世界に誇り得る唯一の独創的大思想家と狩野亨吉博士が絶讃された安藤昌益につきては、彼の遺稿百巻九十二冊の大著『自然真営道』が狩野博士によって発見されて以来、あらゆる方面、あらゆる方法で研究されたが、その身元も生い立ちもさっぱり分らなかった。ところが『自然真営道』の発見から五十七年目に、昌益は江戸桜田で生れたことから、父や祖父の名まで判って来た。彼の末孫の出現するのも、そう遠い未来ではなかろう。この一文は狩野博士が昌益につきて如何に苦心研究されたかの一端を語り、また他の篤学者たちが殆んど総立ちの努力研究の経過等を略叙して、さらに世の有志家たちが昌益の末孫探し遺稿探しに志される方々の参考に供するためにつづるのである。
二 安藤昌益とはどんな人物か
まだ昌益を御承知ない方々のために、かいつまんで申上げると、彼は今から二百五十余年前の徳川中期、すなわち享保から宝暦年代にかけて生活していた人物であるが、当時の教学たる儒教、仏教、神道、切支丹(キリスト教)等を徹底的に批判して、これらをすべて不耕貪食者のもてあそぶ愚民政策の補助具に過ぎないと見たのである。そして神君徳川家康を不耕貪食の大ボスであり搾取の主体と見て「奴輩」とののしった。このころは外国でも農奴を当然の存在と考えていたのに、昌益は生命の糧をつくる農業の甚だ重んずべきこと、従って農民自身の自重すべきことを力説し、農を本とする民主主義を唱えたのである。なおその上に、物事を相対的に見るべきことを提唱し、絶対的存在物をゆるさなかった点は、アインスタイン博士の相対性理論を思い合させるものがある。性関係につきては一夫一婦の和合を理想とし、一夫数婦は野馬の業なりと評した。彼の思想には今の社会主義、共産主義的分子を多量に含んでいるが、その主張と実行方法には大差がある。昌益はあくまで平和論者で、「わが道は兵を語らず、われ争わず」といい、暴力沙汰や冷戦的手段を排斥した。話せばわかる主義でじゅんじゅんとして非戦論を説き、禁酒禁烟の健全生活を勧めた。しかも一面には精神的ゆとりを豊かに持ち、鳥獣虫魚を登場させて人間生活の矛盾を語らせ、人をして思わず吹き出させるという風であった。
かれはまた数学の重要性を認め、当時の人たちが数学を以て商家の子弟などがもてあそぶ卑しき学問と心得ている愚を笑い、彼の唱道する自然真営道、すなわち自然の理法に順応して真実の生活を営む道を実行するには自然を理解しなければならず、自然理解の窮極は数理に帰着すると子弟に教えている。これはどのずばぬけた大思想家は享保・宝暦当時の世界のどこにも存在しなかったと狩野博士は主張されたのである。ところでこれはどの大思想家が徳川時代から明治へかけて、その名さえ知るものが無かったとは、どうしたことかとの疑問がおこる。
三 学者総立ちの身元研究
狩野博士が『自然真営道』百巻九十二冊の稿本を買取られたのは明治三十二年(一八九九)であるが、同博士のところへこれを持込んだ本屋は本郷追分の元一高、今の農大の近くに店を持っていた田中清造氏であった。この人は何にでも「
安藤昌益様 薬種屋大怏ョ鉄次郎
と書いた紙片が出てきた。さらに同巻の裏表紙から現われてきた半紙は年賀の包みに使用したもので、金弐百疋を贈ることをいい、弟子たちの名を左の如く列記してある。
関 立竹
正月五日 上田 祐専
安藤昌益様 福田 六郎
中居伊勢守
高橋大和守
神山 仙庵
島守伊兵衛
北田忠之丞
沢木徳兵衛
中村 忠平
中村 右助
村井彦兵衛
××道右衛門
あとは破れて読めない。さらに第三十七巻のうら表紙から出てきた紙片には
昌益先生様 神山仙確九拝
とあった。この外多数の興味あるもの、たとえば
四 確竜堂良中と安藤昌益
以上発見された紙片で『自然真営道』の著者名確竜堂良中はどうも先生格の安藤昌益と同一人らしいということになった。藤原と安藤とは同一系統の姓で、これは安倍仲麿七代の後裔
大正六年(一九一七)に文部省で全国中学校長会議を開催したとき、東京帝大文科で右の校長たちを招待した。狩野亨吉博士も招かれて出席されたが、その席上で箕作元八博士から『自然真営道』につきて質問されたので、狩野博士が簡単に説明された。列みいる多勢の校長たちも耳をそばだてて聞いたが、安藤昌益や確竜堂良中の名を知るものはなかった。井上哲次郎博士は、とにかくすばらしい話だから、その本を大学へ借りて謄写しようと発言されたが、写本料の予算がないというので沙汰やみとなった。それから六年後の大正十二年の春、吉野作造博士の斡旋で狩野博士から大学へ譲りうけて東大図書館の所蔵となった。そこでこの貴重書をどう取扱うべきか協議が決まらないので館長室のテーブルの上に飾っておくと、あの九月一日の関東大震災で焼けてしまった。東大図書館の蔵書七十万巻を全部失ったよりも『自然真営道』一部を失ったのが惜しいと内田盧庵氏が『改造』誌上で述懐された。
その後間もなく福岡高校教授浅井虎夫氏から、宝暦四年に発行された『新増書籍目録』の中に
孔子一世弁記 二冊 安藤良中
自然真営道 三冊 同
の記載あることを狩野博士に報らせてきた。この著書名と著者の名とによって、確竜堂良中と安藤昌益と同一人であるという証拠があがったのである。
五 昌益の他の著書
毎年夏休みになると昌益の著書を探し出すために各県の書店を次から次とあさり歩くという篤学者もあったが何等得るところが無いと歎かれたものである。ところがその後の発見物はやはり昔の江戸の地、即ち今の東京であった。この理由は後の説明でわかる。
大正十三年(一九二四)に下谷の吉田書店で『自然真営道』中の人相篇三冊の写しが発見されて狩野博士の手に渡った。翌十四年には神田東黒門町の文行堂書店主人が自然真営道の梗概をまとめた『統道真伝』五巻を手に入れて狩野博士の書斎へ持って来た。昭和四年(一九二九)に『自然真営道』の焼け残り本十二巻が現存していることが分った。これは大正七年八月に当時の帝大史料編纂掛長三上参次博士に貸与してあったために助かったものである。次いで前記の吉田書店から測量の本が出て来た。これは序文によると、昌益の高弟神山仙確の家に伝わったもので、昌益の学説は数学を最も重要とする旨を述べてある。この書のフル・ネームは『泰西流量地測量測算別伝弧度術』とあるからオランダ伝来の学説であろう。そして全部で三巻あり、筆者の手もとにあったのだが、狩野博士を通じて借用を申込まれ、転転しているうちに所在が分らなくなった。
筆者は狩野博士の門に出入すること三十余年、関東大震災で一切を焼失したので、しばらく博士にお世話になった。博士と同じ寝室に起臥していたので、朝に晩に自然真営道につきて聞くところを書きとめておいた。博覧強記の博士は細かいことまで記憶しておられた。吉野作造博士の勧めで、当時手に入る限りの資料によって『安藤昌益と自然真営道』と題する一書をまとめて公刊した。その当時の狩野博士のお話では、生命の糧をつくる農民がほんとうに自覚したら社会の秩序が全く顛倒するであろうとの理由で、昌益の稿本一切を門外不出として置かれたのであった。ところで筆者の著書によって一時に昌益の学説が公開されたのでその反響が大きかった。またいろいろな臆説も行われたことを次に略述する。
六 昌益と推定された人物
安藤昌益は秋田の佐藤信淵の父だという説が出た。かなり穿った説ではあったが、専門家の研究の結果誤りであるとされた。秋田城都の住と昌益の著書に明記してあるのだから秋田に住んでいたことは確かであるが、秋田人物伝にもその名がない。そこで狩野博士はもと報知新聞社にいた中村木公氏(後の秋田新聞主筆)を介して秋田魁新聞主筆安藤和風氏に昌益の捜査方を依頼された。和風氏は博学能文の人であるが自分も安藤姓であるから特種の興味を持ち、新聞紙上でいろいろの方法で秋田県人に呼びかけられたが何等得るところがなかった。
安藤昌益は漢字の音韻学にも造詣の深かったことは彼の著書によって明かであるところから安藤昌益は僧文雄の変名であろうという説もあったが、これも誤りであった。また宮崎滔天氏のところに安藤昌益の重要書類が秘蔵されているという噂があったので、これは筆者が調べたが虚説であった。ついに安藤昌益の日記が見つかったとB氏がいいだした。この人は狩野博士も一面識ある人であったが結局真ッ赤なうそであった。こんな例はまだ幾つもあるがここでは省略する。人間は一つの波に乗ってでたらめを云うものの多いのには筆者も驚いた。
七 北千住の仙人
昌益関係者たちのアジトと云った風のものが江戸北千住にあったことが段々分って来た。北千住に住んでいて、『自然真営道』の大著を明治まで持ち伝えた橋本律蔵の住居あたりが中心であったらしい。律蔵は宝暦時代から何代目であるか明かでないが、自家に大した革命的著書が隠されていることを他人に感ずかれることを恐れて近隣のものと交際せず、近所では仙人扱いにされていたので、「北千住の仙人」というアダ名で知られていた。ただ律蔵の極めて親しかったさかな屋(魚商)の主人内田氏にだけはその書のことを打ちあけていた。内田氏は律蔵の学識と人格とを知って経済的援助を内々やっていたので、時々来てはくつろいで話し込んでいたという。このさかな屋の息子が内田天正堂であるが、いつとはなしに『自然真営道』のことを父から又聞きに聞いて眼をつけていた。ところがこの仙人律蔵が死んで、その蔵書が売物に出たと聞いて、そりゃ大変だと、買った本屋を聞いたら浅草の浅倉屋であるというので、天正堂は直ちに浅倉屋へかけつけて『自然真営道』を買取り、これに「極秘」、「門外不出」等の印をわざわざ彫らせて一冊毎に押したのである。内田天正堂は京大にいた内田銀蔵博士の縁戚で、さかな屋の学者息子、また蔵書家として知られていた。一時帝大史料編纂掛に勤めていた。然しこの人には昌益の思想はよく理解できなかったらしい。この天正堂も故人となったので、その蔵書を本郷森川町の前記田中清造氏が買い取って狩野博士のところへ持ってきたのである。天正堂が『統道真伝』を買わなかったのは、彼は『自然真営道』の名を聞いていたが、『統道真伝』の名を知らなかったからである。後に仙人関係の一人からその名を聞いて狩野博士に報らせて来たころは浅倉屋書店から姿を消していたという。ところがこの稿本もまたあちこちに転転して最後に狩野博士の書斎にめぐって来たのも不思議な因縁である。この顛末を実際に見ていた筆者には、魂を打ちこんだ著書は生きているもののように思われた。浅倉屋で橋本律蔵から買った本は大そう多かったというから他の珍書も草稿もまじっていたと思われるが散逸してしまったのは惜しいものである。
八 昌益の実行運動
農民の救世主を以て自ら任じていた昌益は自然真営道を弘める方法として自分の弟子たちを全国の要所に配置した。彼の高弟神山仙確(確仙とも仙庵ともいう)をはじめとして高橋大和守、中居伊勢守、開立竹などは青森県八戸にいて船舶の出入を利用して大阪方面の同志と連絡を取った。大阪は西横堀に志津貞中、同
さてこれらの弟子たちの中で八戸出身の神山仙確、高橋大和守、中居伊勢守等のことはぼつぼつ分って来たが、全国に配置されたものについて何か証拠となるものを探して見ようじゃないかということになった。そのころの東京市史編纂係につとめていた島田一郎氏が北千住の仙人関係の調査にあたり、狩野博士は秋田、須賀河、八戸方面を歩かれ、筆者は京都、大阪、伊勢、九州方面を探ることになった。
北千住の仙人関係の方は随分足まめに調査されたが、かんじんな内田さかな屋の主人も息子の天正堂も故人になってしまったので手がかりに乏しく、律蔵の妻女の行くえも分らない。種々苦心の結果は前記の聞込み説程度のものであった。狩野博士の須賀河、秋田方面は依然手がかりなく、八戸から高橋大和守が祈祷に用いたらしい護符を持ち帰られただけであった。筆者は京都に於て明石竜映の末孫と推定して差支ない明石厚明氏を探しあてた。この方の父君は医者で京都病院の院長であったばかりでなく、代々医を業とし、何代も三条柳ノ馬場に住んでいたという。院長時代に小松宮様に揮毫していただいたという額を掲げ、大きな玄関の両側の棚に医書がぎっしり詰っていた。昔の京都の大火で焼けたとのことで古文書は残っていなかった。当主厚明氏は医者でなく、この方の代になって居を八坂神社の近くに移し西陣織物組合の理事をしておられた。筆者は京都市の戸籍を丹念に探してもらったが、明石姓のものは二家族しかなく、他の一家族は嵯峨に住み他国から新らしく移転して来たもので、昌益とは無論縁がなかった。次に富ノ小路にいた有木静香につきては得るところがなく、有木という姓の人すら見つからなかった。
ちょうど『自然真営道』三冊が京都で出版されたころから百巻九十二冊の大著『自然真営道』の草稿完成ごろにかけて起った大事件木曾川治水工事。これは木曾川と何の関係もない九州の薩摩藩に手伝い普請としてやらせた政略工事で、このために二百数十万両を薩摩藩に費やさせ、その重任の責めを負うて薩摩藩士約五十人が切腹、三十二人が病死した。この大事件が昌益及び弟子たちの行動に影響した証拠物はないか。これも筆者に課せられた研究問題であったが、筆者の寡聞なると古文書を見る機会が乏しいので、未だに何の効果をも挙げ得ない。これもその道のベテランに御協力をお願いしたい。
大阪の西横堀にいた志津貞中、道修町にいた森映確の跡を探って見た。ここは昔と同じく薬種屋の多いところだが、組合本部を尋ねてみると、一度火災でスッカリ焼けてしまったことがあるとのことで古文書は残っていなかった。森医院というお医者さんはいたが、僅か五十年ばかり前に移転して来て開業したのだといわれた。
道修町の東浜から薬種を積出す船が、一方は長崎、一方は江戸および東奥諸国へ向けて往来した。従って交通の便宜が多かった。昌益の門人たちはここに陣取って薬種売買をしながら全国の同志たちと通信連絡を取り合っていたのであろう。
九 刊本の発見
昭和六年二月のことであるが、京都の大屋徳城氏が某書庫の整理をしておられた際に、偶然にも『自然真営道』三冊の刊本を発見したと狩野博士に報らせて来た。筆者は狩野博士に代って同年六月わざわざ京都まで実物拝見に行った。これは云わば自然真営道の緒論ともいうべき程度の内容で、首巻の序文に宝暦二壬申十月奥北八戸県静良軒確仙序とあり、本文の第一丁に確竜堂良中述、門人静良軒と書してある。同書の末尾に続篇の予告はあるが、ついに出版されなかったものらしい。この書の出版年月は宝暦三年二月で、翌四年の図書目録に孔子一世弁記二冊安藤良中、自然真営道三冊同と並べ書してあることは前に述べた通りであるから、『孔子一世弁記』の公刊されたことは確かであるが未だに姿を現わさない。
昭和七年四月東京でも三冊の刊本『自然真営道』が発見されて狩野博士の手に入った。これは甲州の古本屋が東京の古本市へ持って来た書籍の中にまじっていたもので、神田五軒町の文行堂書店主人の手を経て狩野博士の所蔵となったのである。京都の大屋徳城氏発見のものと全く同じ版である。これで刊本が東西に一部ずつ現われたのみならず、京都にも読者があり、比較的交通の不便であった甲州にも読者があったことだけは明かとなった。
その後間もなく、確竜先生韻鏡律正と表紙に書かれた写本が見つかった。これは歴史家中道等氏が八戸小笠原家の蔵書中から発見されたものであるが、「中村蔵書」の印がある。小笠原家と中村家は親戚であるばかりでなく、両家とも安藤昌益の弟子と関係がある。またこの写本の表紙に確竜先生とあるが中味は有名な漢字音韻学の大家僧文雄の書いたものである。開巻第一に『無相沙門文雄僧谿撰』と明記してある。これを安藤昌益が弟子たちに漢字の音韻を説明するために教科書として用いたという意味で表紙に確竜先生と昌益の弟子の一人が書いたことが判る。僧文雄は昌益と同時代の学僧であり、丹波出身で、一代は京都附近で暮していたのに、その著書の草稿を昌益が写して来て八戸で弟子たちに教えたことは、昌益が如何にしばしば京阪方面へ旅行したか、また如何に研究心が強かったかの傍証にもなる。
カナダ公使ノーマン博士が『忘れられた思想家(安藤昌益)』を編纂されたとき、筆者も資料の提供などでお手伝いしたが、そのころはまだ昌益の身元などは忘れられたままで見当もつかなかった。ところがその後八戸市の郷上史家たちによって、大した手がかりをつかまれた。
十 宗門改帳に書かれた昌益とその家族
昌益の弟子たちが八戸にいたことはその著書によって判っていたが、そして八戸の弟子たちの数も他より多かったが、昌益自身がいつごろ秋田から八戸へ行ったのか、また果して八戸に居住していたことがあるのかどうか推定するすべもなかった。ところが三年間昌益が八戸に在住した確証を発見したのは次の事情からであった。
八戸藩の『藩庁日記』は寛文五年(一六六五)から明治四十三年(一九一〇、狩野博士による昌益発見十一年後)まで二百四十六年間約七百十冊の貴重な日記史料であるが、昭和二十五年の春、南部家から民間に払下げられたので始めて八戸郷土史家たちが自由に研究し得る資料となった。この郷土史家たちのグループは長老格の小井川潤次郎氏、藩庁日記を買取られた篤志研究家上杉修氏、神官野田健次郎氏等が幹部メンバーであるが、小井川氏は八戸開藩の寛文五年から三十三年間を詳細に調べて在来の八戸藩史や郷土史の誤りを指摘された。野田氏は藩庁日記の中途から手をつけ始めたが、偶然にも昌益が八戸に在住した時代にあたり、延享元年八月九日の日記に始めて昌益の名が発見された。
その日記の内容は、遠野南部家の射手が八戸市外館村にある櫛引八幡宮ヘヤブサメ(流鏑馬)奉納に来て、射手三人が病気になったので御町医安藤昌益に命じて治療させた。三人とも全快したので、薬礼として金弐百疋昌益へ賜わった。ところが昌益は藩の仰せで遠来の射手をいたわるために治療したのであるから受取らないというので、遠野の射手たちは謝礼金のやりばに困って御奉行へその旨届出たという意味のことが書いてある。この外昌益の医術が優秀であったことを例証するに足る記事が二三ある。
次いで宝暦十一年から十三年までの御用人日記は古帳面を裏返した紙を再用してあるので何気なしに裏をのぞいて見ると宗門改帳であった。その中から昌益の住んでいた八戸十三日町の一部を挙げると
一門徒願栄寺同組 忠兵衛 四十四
有人〆二十一人内男十一人女十人
一門徒同寺同組 忠 平 二十七
有人〆八人内男二人女六人
一同宗同寺同組 昌 益 四十四
有人〆五人内男二人女三人
一同宗同寺同組文次郎借屋涼庵 七十七
有人〆六人内男二人女四人
とある。忠兵衛から昌益までは借屋と書いていないから各々一戸を構えていたことが判る。そして忠兵衛は中村忠兵衛で大阪屋という屋号で酒屋を営み、その子右助(宇助とも書く)は安藤昌益の弟子である。隣家の忠平も姓は中村で、忠兵衛の弟にあたり、昌益の弟子である。そしてやはり大阪屋号の酒屋兼貿易商で大そう繁昌したという。大阪屋というから祖先は大阪出身で、大阪に縁故もあったであろう。殊に貿易商であるから大阪と取引があり、昌益が大阪へ進出する手づるともなったらしい。安藤昌益の一家族のうち男二人とあるは昌益と昌益の長男と推定される秀伯(周伯とも書く)で、女三人は、一人は昌益の妻、二人は娘、或いは一人は娘、も一人は秀伯の妻であろうか。昌益の隣家は富坂涼庵で、これも医者であるから朝晩昌益と親しく顔を合せていたらしい。涼庵の息子涼仙は軽米というところで医者をしていたが、宝暦五年の八戸大飢饉の惨状を記述した『耳目凶歳録』という著書を後世に残している。
十一 江戸桜田の産少年昌益
八戸藩二代直政公は江戸幕府において将軍の御側用人を命ぜられた。御側用人は老中に次ぐ重役で元禄元年十一月十三日に西丸下馬場先大久保隠岐守揚屋敷を賜わった。その時の旗本水野美作守勝種公の御家中、中村兵右衛門義重は直政公と面談する機会が多く、八戸藩の江戸詰旗本川勝儀左衛門
あるとき川勝が子供が無くて困っている話をすると中村は私の子供を差上げましょうということになり、中村の五男文右衛門(後丈右衛門と改む)を川勝へ養子にやり川勝文右衛門となった。
この川勝文右衛門もまた江戸詰となり段々出世して百石取りが二百五十石取りになった。そのころ同じ八戸藩出の江戸詰御側医に戸田作庵という三百石取りの医者があった。これも子供がないので養子を欲しいと川勝文右衛門に相談したところ、自分の兄中村三郎右衛門の二男三之丞(江戸桜田の産)を戸田作庵の養子に世話した。そしてこの三之丞を藩公の仰せに従い、作庵自身のもとの名昌益(正益とも書く)と呼ぶことになった。このとき昌益は十三歳で養子縁組は享保四年二月十四日江戸に於て取結ばれたことを江戸から八戸藩へ報告して来たと藩庁日記に書かれている。この少年が後年の大思想家安藤昌益である。後に不縁になったので昌益は秋田にいたころの安藤姓を名乗るようになったようである。昌益の実父中村三郎右衛門は松平縫殿助御家中とあるが、松平縫殿助は『性名分類』(上杉氏蔵)によれば
壱千石 西丸御徒頭
鉄炮州本湊丁 松平縫殿助忠茂
とある。ここまで判明したのは八戸郷土史家たちの藩庁日記研究による業績であり、昌益及びその弟子たちの系図を細かに調べあげられた野田氏の努力の成果である。
昌益は江戸で医学を修め、長崎では医学とオランダの事情を学んで世界万国という思想を懐くに到ったのであろう。八戸へ行ったのはその経路と理由がまだハッキリ分らないが、昌益が一戸を構えていた八戸十三日町は昔でも繁華街の中心であったから、いわゆる御町医ではいきなりここで一戸を構えることは容易でない。これは中村家との姻戚関係があったから便宜を与えられたのであろう。野田氏の調査材料を見ると昌益が戸田家と不縁となったのは享保八年のころ戸田作庵が二度目の養子玄釣をもらったころらしい。昌益が八戸にいた確かな証拠のあるのは、延享元年から同三年までの三年間で、その後八戸を去っている。宝暦十三年三月に昌益の息子でやはり御町医であった周伯(秀伯とも書く)が母親をつれて上京したいと藩庁に願い出て許可されている。このとき他の女二人はどうなったのか明かでない。或いは女二人は江戸へ先発していて、あとから周伯と母(即ち昌益の妻)が江戸で落合ったのではあるまいか。
百巻九十二冊の『自然真営道』稿本は一時に書かれたものではない。昌益が折にふれて書きとめて置いたものを弟子たちが編集したと判断される記事が第二十五巻真道哲論の巻に見える。八戸には神山仙確はじめ弟子たちも多かった。しかし八戸に於ける延享二年、寛延二年、宝暦三年の凶作、宝暦五年の大凶作などが、昌益の著書に直接反映していないところを見ると八戸で編集されたものとは思えない。江戸北千住にあったと推定されているアジトで弟子たちが編集したものらしい。昌益の手元にあった草稿は日記の表紙であったと北千住の仙人関係者間にいい伝えられていたから原本は大部分昌益が旅行中に書いたものの集積であろう。江戸時代には輪郭や日附を木版で印刷した半紙版の日記帳を日本橋の須原屋で売っていたからそれを使用したようである。
安藤昌益の居宅に於ける『自然真営道』の編纂に当った弟子たちが清書も製本も手製でやったと思われる。弟子の一人が昌益に向って「先生、何か表紙の裏張りにする紙がありませんか」という要求に答えて出された反古紙の中に八戸から引揚げるときに持って来た書類の一束があり、その中に前記の昌益宛書簡断片等の発見物がまじっていたのであろう。従って『自然真営道』の編集は昌益の居宅に於て行われたと見るべく、表紙の裏張りを反古紙で間に合せるほどの質素な生活さえ想像される。
十二 今後の問題
以上読者諸氏にわかりやすいような文章で書いたが、実は安藤昌益の著書は全部特種な漢文で書かれ、これを読破するだけでも容易でない。たとえば天地を転定と書き、相対性原理を互性活真と書く類は枚挙にいとまなしである。従って研究の苦心は一通りでない。その他昌益の著書探し身元探しに、狩野博士を筆頭として篤志家諸氏が苦心従事すること半世紀余になる。
筆者の著書『安藤昌益と自然真営道』は英と仏とに紹介され、モスコーの図書館へ二十部まとめて送られたことは聞いたが、その他の国のことは知らない。今度ノーマン博士の編集された英文著書“Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism”(安藤昌益と日本封建制度の解剖)はエーシャティック・ソサイティー(亜細亜協会)の研究報告として世界的に紹介された。その和訳『忘れられた思想家(安藤昌益)』も内地で大そうな売行であったと聞く。昌益は自分の著書の中で百年後に必らず自分の説を認めるものが出現すると予言しているが、その予言が今や世界的に実現されたわけである。
ここで読者諸氏の御参考として今後の問題を要約して見ると
(一) 昌益の著書に関しては『孔子一世弁記』の出版されたことは確実であるから、どこかに一冊でもかくれていないか。また北千住の仙人の所から姿を消した半紙版の昌益自筆日記は百巻九十二冊の材料になるほど多くあったのだから、たとえ一冊か二冊でもどこかにかくれて発見されるのを待っていはしないか。日記帳だから無論表紙に自然真営道だの確竜堂良中だのと書いてあるはずがなく、内容を読まなければ益昌自筆と判別できまいが、たとえ一冊でもあれば益昌の行動につきて大きな手がかりとなろう。また弟子たちの書いたものもどこかに残っているであろう。
狩野博士は昌益の日記を探し出すために、和本屋、古書展は勿論、古本市場、和本のつぶし屋、屑屋のもって来る古証文類まで絶えず探されたが不成功に終った。
(二) 昌益の系図と末孫に関しては水野美作守勝種公の御家中、中村兵右衛門義重(昌益の祖父)、中村三郎右衛門(昌益の実父)、またこの三郎右衛門は松平縫殿助忠茂の御家中とあるからこれらの系譜や関係古文書などに明るい方々に調べていただきたい。また昌益が一度養子に行った戸田作庵の系譜及び古文書なども残っていれば参考になろうと思う。
(三) 昌益は秋田では藤原良中、安藤良中、または確竜堂良中と名乗っていたと思われるから、すべて新らしい眼で秋田の古文書をもう一度見直す必要があろう。
また昌益時代には漢字の使用が甚だ自由であったから、良中を良仲と書き、昌益を正益、島守を島盛、盛岡を森岡、右助を宇助、秀伯を周伯と書くくらいのことは公文書でも平然と行われていた。のみならず昌益の年齢も宗門改帳によってくってみると百巻九十二冊の大著完成の宝暦五年には五十三歳となり、養子説を基にして数えると四十九歳で四歳の差を生ずる。年齢の記録も甚だルーズであったらしいから、その辺のことも承知の上で調査を進めなければなるまい。昌益の秋田在住は八戸より先であるから江戸で養子が不縁になってから後であることは無論であろう。
昌益の弟子の一人であった高橋大和守の子孫に伝えられた白山縁起のことはたびたび聞き、その文句も一部は報らせてもらったことはあるが、今度増穂残口の書いた白山縁起跋の忠実な写しを野田健次郎氏から見せていただいて、成るほどとうなづくところが多かった。ちょっと変った神道を唱え、諸国の遊里を遍歴して『艶道通鑑』及び神道に関する七部書を著述した残口は或る期間八戸に在住したことも判り、年齢は昌益より四十歳ほど上だが、思想上昌益からかなりの影響をうけたことも分った。このことも他日執筆して見たいと思う。昌益の信念が如何に偉大な感化力を持っていたかを知るたよりとなろう。
(四) 百巻九十二冊の昌益の大著がどこで編集されたかが問題となっていた。狩野博士は八戸編集説を支持しておられた。八戸の弟子が割合に多く且つ昌益の高弟神山仙確が八戸出身であることが主なる理由であったらしい。筆者はいろいろの点から考察して江戸編集説を主張していた。ところが今度江戸編集を確実に裏附けする資料があらわれた。大体この大著は神山仙確が編集主任となってまとめたことはこの大著の内容から明かに判断されるが、その仙確が宝暦四年から同七年末まで約四年間殆んど江戸に滞在していたことが、野田氏の藩庁日記研究で明かになった。この大著の序文には宝暦五年二月とあるから、この大著の完成する前後約四年間仙確が江戸にいてその編集に努力したことが確定したわけである。
(五) 次に安藤昌益の一生の最後はどうであったろうか。今のところ未定であるが、いつの世にも、またいずれの国でも、革命的思想をいだいている者は多難である。殊に切捨御免の封建時代に神君家康を奴輩と呼ぶ者の身辺の危険は想像外であったのではあるまいか。彼は果してどこでどうして終ったであろうか。また彼の家族たちの運命は? 是等の点は偏に後賢の研究と闡明とを俟つ。
(六) 宗門改帳は古帳面を利用してあったので、バラしたときの年代の乱れも考えられ、八戸の郷土史家たちも年代の決定に迷い、一弟子の年齢から推定したとのことである。ところが、ごく最近弘前大学の羽賀与七郎教授から贈られた『和算家神山由助久品について―安藤昌益をめぐる人物』によれば、同氏は青森県史を引用して延享元年六月廿九日「八戸領内宗門改及ビ惣人数ヲ調査ス」、寛延二年十二月廿六日「八戸領内宗門改竝惣人員ノ調査ヲ行フ」とあり、大日本年表には「延享元年幕府戸口調査」とあり、また「寛延三年幕府諸国ノ人ロヲ調査ス」とあるから八戸の宗門改は寛延三年の記事だと主張しておられる。歴史的な裏附があり筆者もこれを支持したい。この年は養子説から数えて丁度昌益の四十四歳にあたり、年齢差の疑問も解消する。従って昌益は延享元年(一七四四)から寛延三年(一七五〇)まで七年間八戸に居住したことになり、大著完成の年は四十九歳が正しいことになる。
(『三田学会雑誌』第49巻第3号、昭和31年3月。)
底本:「安藤昌益と自然真営道」勁草書房
1980(昭和55)年4月25日第6刷
