崗の下の宿へ朝飯を喰べにゆき、畫室に戻つて、籐のソフアに仰臥して、久しぶりの閑靜に心耳を澄して居るうちに、つい睡つたと見える――ちくつと虻に足を螫されて私は目をさましたのだ。
いつか、窓一つぱいに日向の景色となつて居る。窓に近く、白い花を澤山につけた栗の梢が風に揉まれて銀色に葉裏を飜へして居るのに、溪のむかうに崖をつくつて居る唐松林や、其
近い梢でしつきりなしに鶯が啼いて居る。溪の方に、カツポーカツポーと山鳩の含み聲が聞える。
空には今、湯氣のやうな淡い雲が流れてゆく。
實に心ゆくばかり閑靜だ。
丁度。昨年の今頃も此畫室に居て、『美術家の欠伸』といふ雜文を書いた。
今年は農民美術に關した記述を徴されて居るのだが、さつき、ふいと『美術家の脱線』といふ言葉が口に出た。それを再び聲に出して私は顏を天井にむけて笑つた。
昨年欠伸した美術家だつた私は(ずつと前から欠伸して居るのだが)今年は脱線した美術家になつてしまつた。
無論其欠伸も脱線も、私が理智で匠み出したのではない。永い間私の動力であつた『美術家』が私に飽きられたのだ。其力が私の全體を支持する事が出來ずに、他の壓力に負けて分裂しはじめたのだ。
考へて見ると此淘汰にはいやに深刻な皮肉なものがある。
私の『美術家』は内と外とに敵をうけたのだ。外の敵といふのは、これまで隷屬者として閑却されて居た、私のうちの『政治家』や『實業家』や『詩人』や『家庭安住者』や其他いろいろな者共が昂然と各々價値を唱へて起つた事で、とんと群雄割據して支配權が脅かされたやうに、私の『美術家』は、昔戀を平定した以來の危難に遭遇したといふものである。
深刻なのは内の敵だ。
黽勉の故に自づと金が溜り、溜りすぎたゝめに不幸になつた金滿家のやうに、我が『美術家』は、正直な攝取の結果として不幸に到達したのである。
有體に云へば、私は智慧の實を喰ひすぎたやうな氣がする。
畫家の技能が、專ら聖者の奇蹟や、國王の治蹟などを顯揚讃美するために用ひられて居た時代はよかつた。
臨本――扮本――師傳の教習のもとに先人の筆技や、構圖や傳彩などを調合按配して製作三昧に起居し得た者共は
廣袤を示すに遠近法だけですまして居られた時代はいゝ。
形態に客觀性が信じられ、色にも調子にも普遍の約束が存じて、無邪氣なコンクールが行はれて居た時代は仕合せだ。
處で吾々はどうだ。
今私は眼の前の空に、うるしの木が梢をひろげて居るが、油繪の具をとつてあれを描かうとする場合に、私は、強く健かな梢の身振りと共に、明暗を交ぜて派生する緑葉の、其物質美にも立體觀にも、水色の空とのヴアリユーにもひとしく見惚れるであらうし、其處に空氣や光線の現象も認識しないわけにはいかない。
吾々は、レオナールドもレンブランドも有つて居なかつた微細な表現的慾望を有つて居るのだ。例へば太陽下の現象や、空氣の化粧、物質の種々相、形態の個性などに對する表現慾がそれである。更に、色其物、筆觸其物の味ひに就ての慾望もそれだ。物象の再現を無みした律動的なヴアリユー、畫家の神經を抽象した不思議な構圖――それ等の表現的慾望だつて紛れ潜んで居る。そして顏料もそれ等の慾望によつて精練された、頗る能辯なものとなつて居るのだ。
此賑かな慾望、其便利な顏料を咀つて居る人は勿論ないだらう、私も其魅惑から一生遁れ難い事を知つて居る。
然も左樣な慾望の紛糾は、私に於てはいつも畫面の混亂となるのである。渾一した美を鮮かに感じながら、一と度描寫に進むと忽ち感銘は分裂して、其成績は毎に混濁した認識の
私は其度に悲憤の情をこめて叫んだ事だ。
「畫なんてものは實感に比べると滓のやうなもんだ」
と。これよりさき、我が『美術家』はふさぎの蟲にも取りつかれて居るのだ。
此頃、良友のMと久しぶりで逢つた時、Mはしんみりとこんな事を云つた。
「今度又奈良で十大弟子を見てね、あゝいふものはもうとても出來ないのだとつくづく感じたよ。」
と、同じ感慨を、私は、ルーヴルでも、ウイチでも、サンマルコでも、ヅオモでも、シスチンでも、テルメでもくりかへした事だ。そして、「西洋の美術は希臘の神韻を頂天にしてだんだん低下して居る」といふやりきれない結論を得てしまつた。東洋の美術だつて同斷だ。
いつぞや、大觀氏に「東洋の繪畫ではどの時代が一番良いですか」ときいたら、
「私は宋元だと思ひます」
と云はれたが、想ふに、同じ質問に對しては、美術家の殆全部が、五六百年から千年位も前の美術を擧げるに相違ない。
つい近頃、私は松方侯爵邸で、松方幸次郎氏持來のゴヤの『少年』に見惚れながら此感慨を新にした。其日、二階にあるピツサローの畫の薄つぺらに感じられた事――ヴイヤールの畫などと來ては、襤褸か紙屑のやうに安つぽく見えた。處で、ヴイヤールはとにかく、ネオ、アンプレツシヨンニストの驍將であり、彼のベルネーム、ジヨーンの寵兒だから心細い。
美術は時代を追ふて低下して來た――これは蓋し鮮明な事實だ。
然らば左樣な美術の宿命は末長からぬであらうか?――私は其終りが近づいて居る様な氣がする。
人類のある限り美術の價値の存する事は知れた事だ、私の感じて居るのは、つまり、美術史が此處らで過去と未來に〆括られて、新しい美術史がはじまらねばなるまい、といふ事である。
なぜならば、前に云ふやうな大昔の美術を禮讃思慕する心と觸目の現實に感動し見惚れる實感との間は決して融通無碍なものではないからである。
レニヱではないが、
きのう故に夕暮重し、
身の故に夕暮かなし、
あす故に夕暮苦し、
だ。
人間界に、もはや永遠の平和が期せられて、軍國主義は再び蘇へる理由がないと定つたとしたら、軍人共の寂しさはどんなだらう。
似通つた寂しさが、今の美術家たちの心の隅に芽を吹いては居ないか?。
私の心の隅には芽を吹いて居た。大正六年に日本へ歸つて其處の味氣ない美術界に一戸を構へた頃から、其芽はだんだん暢びて來た。――そして私に欠伸をさせ、脱線させたのだ。
我が『美術家』は、かやうに内外に衝動をうけて分裂した。昨年來私が沒頭して居る自由畫教育の提唱も、日本農民美術の建業も要するに其分裂の破片を意味するものなのである。
千九百十六年の六月、私は買ひ溜めた五六十册の本と一と束の畫を留學の紀念として收めた古びた一個のトランクを携へて、悄然と巴里を出發した。其時、自分の心に問ひたしかめて僅かにかう慰めた。
「僕の成績はパトロンや友人に對して申譯のない程のポーブルだ――でも、たつた一とつ自分は留學の間にはつきりした信念を攫む事が出來た。それは即ち、リアリズムの信念だ。――これさへあれば、自分の生はきつと正しく強く支持される」
といふ自信であつた。
私はかう考へた。――すべての物、すべての事、すべての關係には必ず個性といふものがある、それが即ち價値だ。
藝術の内容とは、人生の内容とは、要するにそれを感銘認識する、愛の深淵を意味するものだ――自分の成す可き仕事は、すばらしく富饒である。
と、私は此法悦を抱いて歸路に就いた。日本へ歸つてからの單純な製作生活を空想しながら汽車のなかに安眠した。
北海を越へ、スカンデイナヴイヤを縱斷し、フインランドを迂廻して露都に入り、モスクワに着いたが、此都で、私は思ひの外の道草を喰つてしまつた。三日滯在するつもりが實に五ヶ月にのびてしまつた。其間の見聞で、巴里では見られなかつた、或は氣がつかなかつたものが三つある。一とつは農民音樂の試演、一とつはクスタリヌイミユゼヱ(即ち農民美術蒐集館)一とつは兒童創造展覧會(即ち私の所謂自由畫展覧會)である。
農民音樂の試演は、或夜音樂學校で催されたのを聽きに、いや見にいつた。
演者は、小露西亞の村から、其まゝの風俗で招かれて來た農民の一團で、老若男女三十名ばかりも居たと思ふが、皆其地方の歌ひ上手なのである。いろいろあつた中で、『嫁とり唄』といふのが一番面白かつた。それは、彼れ等の村の婚禮の祝宴を有のまゝに現したもので、始めに婆さんが唄ひ、次いで娘が、左手を腰に支へ、右手をかざし、小きざみな脚踏で踊りながら唄ひ終ると、今度は全部の男女が、兒とろとろのやうに列なつて大きく輪を描いてめぐり、その廻旋を次第に早めてゆく、すると、醉ひどれに扮した(あの時は多分扮したのだらう)禿頭の
農民音樂は、其場だけの事であるが、他の二つは私の生涯と深い關係を有つてしまつた。
クスタリヌイミユゼエ、とは木工品陳列所の謂であるさうだ。つまりモスクワスカヤ縣の農民美術販賣所なのである。其處で販賣して居る物は、私の覺えて居るだけでも、玩具文房具、小器具、風俗人形、紙細工、籠、織物、小家具、陶器等の多種目で、皆露西亞趣味のはつきりと現れたものであつた。二階には此國の歴史的な農民美術が陳列してあつた。私は其處で、ミユゼヱの美術上の支配者である何とやらコフといふ人と、片上伸君の引き合せで握手した。處が、前に述べたやうに、日本へかへつて製作三昧な生活に駈け込んで居た私は、此人から別に委しい話を訊かうともせず、階下で
處が、此
實は、此事業がかう早く緒につかうとは思はなかつたのだ。むしろそれは、最初私の胸に父の事業として構想されたものであつた。六年ぶりで兩親の膝下へ歸つて、旅ごゝろにもはなれた頃、私は父母とこんな會話をしたのを偲ひ出す。
「お父さんに一とつ良いお土産を持つて來たのですよ」
「ふむ、……何だい」
「農民美術、といふ事業なんです……工夫好きで趣味の多いお父さんの、晩年の事業に持つて來いだと考へて、途々計劃を作つて見た事業なんです……もし成功すれば國家の慶事ですね」
母、「そやあ大變だ、お父さんにそんな精力がありなさるかしらん」
父、「お前の持つて歸つた、あの露西亞のおもちやのやうな物をこしらへるのがい」
「まあさうです、おもちやばかりでなく、彫刻を施した木箱もやるし、染色した布や、刺繍したクツシヨンや、あのブルタニユの皿見たいな素朴な陶器もやらうといふのです。
歸りに、鴨緑江を渡つて居る時の事でしたが、僕の隣に座つて居た老紳士と口をきゝ出したのですね、其紳士が林學者だと知つて、僕はあの
其意匠や圖案の支配は僕が受合ひます。が、村の希望者を集めて練習所を經營する事をお父さんがやつて御覽んなさいませんか。丁度家の二階はあんなに廣いし、さしづめあすこを練習所にするんですね。うまくいつておもちや以外に種々なものをやるやうな段取りに進めば、此村に農民美術學校も出來ようといふもんです。」
父「おいらは木彫りをやつて見度いと思つて居るんだ。木箱などを塗るのもずゐぶん面白からうよ。新座敷に置いてあるあの黒い小机な、あれはおいらがカサンカマンガンで染めたものだ、まるで黒檀の通りじやないかい」
母、「お百姓さんは冬中炬燵にお葉漬でお茶を飮みながら無駄話をして暮して居るのだから、さういふ仕事がはじまるときつと良いね。けれど、わたしが思ふのに、此事業はお父さんではむづかしいね。……さし當りお醫者を廢業しなければならなし」
「僕がやるのは閉口だ、……僕はこれからしんみりと製作生活にはいらなければなりません」
父「まあ、ゆるゆると貴樣がやれ、老骨には重すぎる事業です。おいらはひまひまに過去五十有餘年の見聞記を作り上げなければならない」
かやうな次第で、建業の望みは私の胸の奧へ、粗い草案のまゝで藏はれたのであつたが、其頃だんだん親密となつた同村の農、K君Y君の熱心な協贊によび出されて、今度は目前の事業と急轉したのである。
K君は所謂、哲學と自然科學に身を鍛へた深味ある實際家で、Y君は其後輩なのである、最初の兒童自由畫展覽會が神川村で行はれたのもK君等の理解と運動のお蔭であるし、農民美術の建業も同じ人の愛と金とに支持されて今日まで來たのである。
私は初めにK君とかう誓つた。
「よし! 僕はきつと『日本農民美術』を表現さして見せます――君は其處に立派な産業組織を仕上げて見給へ」
私がもし製作三昧の極樂土に居たなら、勿論此決意は示されない筈だ。そして此事業は、十年ばかりものちに創められるかそれとも終に日本の土に根をおろさずにしまふかだ。併し幸か不幸か、我が『美術家』は欠伸して居た、そこで向不見に、勇み進むで脱線してしまつた。そして昨年の十一月から、吾々は建業の實際に取りかゝつたのである。
吾々はまづ練習生を募集すべく『日本農民美術建業の趣意書』と標題した册子を作つて村中に配布した。其處に述べた大意はこうである。
「農民美術は何れの國にもありますが、是れを現に、組織的に國家の産業として奬勵して居るのは露西亞であります。其製作品は廣く歐米に輸出せられて逐年其額を加へ Peasant art in Russia の名は産業美術の首位に標されて居るのであります。農民美術とは、農民の手によつて作られた美術的手藝品の事であつて、民族的若くは地方的な意匠――素朴な細工――作品の堅牢等が其特色とされて居るのであります。日本にも農民美術と稱す可きものが昔から各地にあるにはありましたが、其製作及販賣の方針が頗る消極的で、何等の美術的理想も産業的奬勵もなかつたゝめに、段々製作品の美的價値が低下して、終にもろく機機力に壓倒されてしまひ、今日では外國に對して Peasant art in Japan と名づく可き何物も無いのであります。
而も吾が日本は、由來美術的手藝に就てはアテネの大美術にも比肩す可き光榮ある成績を有して居り、趣味も性能も共に頗る産業美術の製作に適合した民族なのであります。
されば、此處に若し或美術的理想と、微細で廣汎な經濟的效果を所期する産業組織とを以て美術的手藝品の製作を奬めたならば、必ず愉快な成果を見るに相違ないと思ふのであります。
建業の目的は汎く農民をして農務の餘閑を好む處の美術的手藝に投ぜしめて、各種の手藝品を獲、是れを販賣流布しつゝやがて民族と時代とを代表する『日本農民美術』を完成して以て、一般の美術趣味と國力とに稗益せんとするのでありまして、豫定の製作品目は、木彫人形、彫刻を施したる各種の木製器具――彩畫に飾られたる木製器具、及陶器――刺繍或は染色によつて裝はれたるクツシヨン、卓子掛、袋物、――特色ある意匠による各種の家具――壁紙、壁畫、敷物等でありますが、すべて必ず手藝によつて飾られ作られるのであります。
若し機械製品に對して經濟的の競爭をまぬかれ得ざるものとしても、それは農務の餘暇に作らるゝ事、産業面を充分に擴げ得る事及産業組合組織に伴ふ諸々の利便等によつて、蹉跌なく支持せらるゝであらうと信じます。
事業の方法は最も重要であります。吾々は是れを大體、露西亞のクスタリヌイミユゼヱの形式に學び、まづ農民美術練習所を設け、志望者を集めて教習に從ひ、漸次擴張して『農民美術學校』の組織に達しようとするのであります。
其處では、豫定の製作品目のすべてに應ずる教習の機關を完備し、農村、或は小學校よりの依托生を收容し、任意の科目に就て短期卒業の教習を與へ、彼れ等を通じて、漸次全國の小學校に課せられてある手工科をも産業美術の製作に活かさうとするのであります。又素材部を置き大規模に木材、布、糸、塗料、繪の具等を仕入れて是れを輕便に安値に農民美術家に供給し、販賣部を設けて製品を集積し、作者にとつて最も利潤の多い賣捌きに任ずるでありませう。
要するに、吾々の企望は、從來空費され、若くは無味に費されつゝあつた農閑を充すに簡易な娯み多い創造的勞働を以てせしめ、日本全國の農民諸君の手から産業美術の一大種族を引き出さうといふのであります。
どうぞ、吾々の趣意を了解せられて直接と間接にかゝはらず力を添へて戴き度い。
では別に示された『練習生心得』にしたがつて製作を練習し製作を提供せられん事を希望します。」
山本 鼎
金井 正
此パンフレットを配つた翌日、小學校へ村の青年會と婦人會の幹部の人達に集つてもらつて、更に私は縷説した。
まづ、吾々の企てが營利會社ではなく、産業組合組織の上に目的を達しやうとするのであつて、神川村が其出發點――單位――即ち模範となるのであれば、一村の協力といふ事が重要視せらるゝ事を述べ、露西亞の農民美術を澤山に陳列して、其各品目に就き、素材の安値な事と、製作法の簡易な點を指摘し、短期教習の可能、及び公衆的價値に就て、工藝美術界に特長を異にして現存する三大グループ――農商務省工藝美術展覽會。佳津美村美術工藝品展覽會。裝飾美術家協會展覽會等を對象にして、吾々の所期する農民美術の立脚點と其文化的意義を宣明した。
で、此演説と趣意書が齎した效果はどうであつたかといふとつまり左の數句に現されて居た。
「これはハア、大ていなもんではごわせんぞ、あねいな立派なものが一と冬やそこらで出來やすかいなあ」
「とても百姓にはヘヱ、……繪心がねえ事には、つまり困難だわさ」
「まつたく、籠を編むとはわけが違ひやすわ、……百姓が美術品を作らうつうだがらナイ」
「さあ……うまく練習生がごわせうかなあ?」
でも、開業までに、男四人女四人の練習希望者があつた、無論此數は吾々の意外とする處であつた。吾々は此四倍の申込者を豫想して居たし、收容人員を二十と定めて、其人々に配給する用具を準備して待つたのであつたから、性急な私は悲哀をさへ感じた、「さうですなあ、思ひの外少うごわしたなあ……ですが今に解りやせう」と寡言なK君は相變らずニコニコして居たが、私は「もしかすると日本の土には根のつかない種子かも知れないぞ」と疑ひもした。
けれども勿論猶豫なく練習所は開始された。十二月五日の朝小學校の空き室に、新にストーブ其他を設備した吾々の教室へ四人の生徒に三名の教師、經營者のK君Y君などが集つて、嬉しい始業式をやつた。
男子部四人の生徒には木彫が課せられた。彼れ等は外に積んであるドロの小丸太を室へ運んで來て、挽ひて割つて、どしどし人形を刻み出した。始めは露西亞の素本人形をサンプルにしたが、彼れ等が隨意に作つた風俗人形を見て、サンプルのむしろ無用なのを悟ると共に彼れ等が自由製作に任せる事にした。彼れ等は時に、オペラ役者だの裸體美人だのを刻み出して教師等を面くらはしたが、ドロはぐんぐん消化されて一週間目には棚の上に勝手な面白い小さな風俗人形がいつばいに列んだ。それは重に胡粉を塗つて彩取りで活かした人形で、私はそれを『木片人形』と命名した。
其うちに『白樺卷』と名づけた小物入れが、教師の手に完成した、これは白樺の樹皮を卷いて筒となし、それに底と蓋とをつけたもので、樹皮の彈力が上手に利用されてあり、卷き合せ法に特色があるのである。吾々は其風味ある『白樺卷』が商人によつて模造發賣される事を防ぐために、早速實用新案の特許申請を果した。なぜならば此樹皮は信濃地方では、盆の精靈祭の焚火に用ひる位のもので、三貫目一圓といふ安價なものではあるし、製作法も至つて簡單だからである。
其白樺卷を、練習生等は三日と習はないで、立派に作りはじめた。而も驚いた事には、彼れ等は其處に用ひられる圖案も、燒畫も、ニスの仕上げも樂にやつて退けたのである。
間もなく男子部の練習生は七人になつた。
困つたのは女子部であつた。寒國の眞冬に、毎日十八丁の道を往復して教へにゆかなければならない難儀な役目を進んで引受けてくれるやうな刺繍の先生は容易に得られずに、とうとう二月となつてしまひ、やつとの事で其人を得て、大吹雪の紀元節に女子部を開いたのであつたが、其時、女子部の志望者は十六人になつて居た。つまり仕事の興味多く意義ある事がだんだんに解つたのである。
待ちに待つた女子部の生徒達は、貪るやうに練習をはじめた。吾々の方針で、最初から草花を圖した棚敷をあてがつて、それを其處で染めたメッキ糸で縫はした。で其次にはもう良い布れ地と絹糸を與へて賣物になるやうな手提袋などにかゝらせて見たのである。だから彼れ等は二週間目には、麻や天鵞絨や繻子やポプリンなどへ、毛糸やスコツチや釜糸でいろいろな模樣を刺繍してクツシヨンやテーブル掛けを作つたし、五週間目にはとにかく縮緬の半襟地へ金糸銀糸を交へてむづかしい草花を繍ひとりした。
三月にはいると教室は頓に充實した。木彫室の棚には、白樺、朴、みづくさ、桂などで作られた木地の鉢、皿、盆、小物入、箱などが澤山に列んで居た、生徒等はだいぶに手練れて來た技工で、彫つたり塗つたり描いたりしてそれ等の實材を消化する其興味に燃えたつた。刺繍部では又、行く手に、圖案を備へて與へられた、面白さうでむづかしさうないろいろな繍ひ物に心を奪はれて傍目もふらずに針を動かして居た。而も彼れ等は時々音樂室へいつてオルガン彈ひて歌つたり、運動場へ飛び出してキヤッチボールをして遊んだりして、活溌に
此頃に圖案の教習をやつた。天氣の良い一日、男子部の練習生と教師は、高原の縁に斷續する櫟林に沿ふて半道ばかりも歩きながら、種々な木の葉や草の實を採集したのであるが、其處には圖案に持つて來いの資料が澤山にあつた。夏ならばかへり見られない雜草も、裸の莖を見せて珍重された。とある木叢に黄金色の粒から成る立派なモールが懸つて居た――それは野葡萄であつた。流れの音を潛めた明るい草むらで、錆色の音譜が散らかつて居るのを見た。――それは箸のやうな莖の尖に花の座ばかり殘した野菊であつた。やはり細い直ぐな莖の尖に火華の形に鐵色の華輪を描いたのがあつた。――それは犬じらみであつた。此他、松笠、櫟かしはの葉、枳殼の枝、野茨の枝、芒、苅萱、檜葉、甘菜、――とそれはそれはいろいろな智慧がざらに落ちて居た。
採集したものは大卓子の上に置かれ、生徒と教師は各々畫用紙を控へて、圖案の教習をはじめた。勿論任意の資料を採り、與へられた、實材に瓣化するのであつたが、この試みは思ひの外成功した。四時間ばかりの間に練習生の手に産れた圖案の、及第したものが二十餘種に上つたのである。
圖案の契機を身邊の自然物から直接に得る此方法は、蓋し吾々が製作上の重要なる方針となすもので、是れを小にしては各人の、是れを大にして民族の特色を必然的に表現せしむべく、最も簡單で最も純粹な方法であると信じて居るのである。
女子部の人達には不幸にして圖案の教習を試みる時を有たなかつた。僅か四十日の間にさういろいろはやれなかつたのである。吾々は始めに、補助學課として、意匠、圖案、自由畫、素材、實材に關する講話、美術雜話等の教目を豫定したのであつたが、殆どやれずにしまつたので、それ等の事は、生徒と教師との間で月々回覽雜誌を作つて填めあはせる事にした。
竟に練習の終りの日が來た、三月三十一日である。三十一日には、一切を片づけて、きれいに室を掃除して其處で最後の晩餐をやつた。練習生も教師も一しよになつて御馳走を作つた。
其翌朝から、練習生は農務に從ひ教師等は東京へ歸つて展覽會の準備にかゝつた。展覽會は神川村と東京とで開く事にきめられて居た。作品が積まれて見ると、吾々はそれを賣つて見度くなつた。産業美術として賣れるといふ事は作れたといふ事と同じに重要だからである。それで、三越に即賣展覽會の件が交渉されたのであるが、三越の人は、素人の百日間の成績品と聞いて首をかしげたのであつた。處が製作品の一部を見て「おやりなさい」と及第點を與へてくれた。
神川での展覽會は四月十一、十二の二日と定り、此建業に格別な同情を寄せられる文部次官の南氏がわざわざ神川村へ來觀せらるゝ事などが明かになつて、一同は歡聲を揚げて展覽會の仕度を進めた。吾々ばかりでなく、それまで兎角冷淡であつた村の長老達は俄かに興味を寄せて此遠來の賓客を村として歡迎する事を決議した。停車場のある字大屋では其日、戸毎に國旗を掲揚して是れを祝し、村長の名に於て知事をはじめ縣下の名士に招待状が發送された。
展覽會は二日共上天氣だつた。大きな教室を二タ室蝦茶の幕で裝つて其前へ製作品の全部を配置し、處々自然物(例へば馬鈴薯とか樫の枯葉とかいつた物)と其圖案と作品とを並べ飾つて製作の方程を示した。
熱心な觀衆は縣下の各地から集つて來た。そしてだれしも作品を清新だといつて褒めてくれた。南氏は最も注意深く鑑賞して、吾々のために講演會場に立つて理路井然たる協贊の辭を述べられた。
すべてそれ等の景氣の好さは、能力の單位を一村の協力の上に要する吾々の産業的新事業にとつて都合の良い事であつた。
吾々は以上の經過の一切の上に、短期の卒業を必要とする農民美術の教習が充分實行され得る事を確認した。意匠も圖案も技工もサンプルなしに自然物に契機する直接法で立派に成功する事を知つた。又同じ方法で、小學の過程に編み込まれてある手工科を活かして少年等が學校を出る時早く既に農民美術を副業となし得る程に仕上げる事も大丈夫出來る事を洞察した。
而して、五月の末吾々はそれ等の短期の教習に獲た手藝品を市場に發表して普通の賣品としての價値を驗す場合に立つたのである。
其製作品目と其作者及教師は左の通りである。
男子部製品
木 箱(彫刻)…………………………………………三六
白樺卷(彩畫)………………………………………三三九
小物入(彩畫)…………………………………………九六
木 皿(彩畫)………………………………………一三二
木 鉢(彩畫)…………………………………………四五
木 盆(彩畫)…………………………………………一五
木片人形………………………………………………二八〇
木 箱(くりぬき)………………………………………二
ペーパナイフ…………………………………………一二〇
女子部製品
クツシヨン(刺繍)……………………………………二三
手 提 袋(刺繍)……………………………………二六
半 襟(刺繍)……………………………………一二
卓 子 掛(刺繍)……………………………………一四
棚 敷(刺繍)……………………………………一三
合 計……………………………………………一一五三
木彫部練習生
山越茂重郎 神川村字國分
金井福太郎 同 字國分
中村 實 同 字黒坪
關 武保 同 字下青木
有賀 潔 上伊那郡高遠
吉池 勝 縣村 字新田
土屋 實 和村字中曾根
刺繍部練習生
望月さかえ 神川村字大屋
金井はま代 同 字岩下
押金はるえ 同 字青木
金井 玉代 同 字岩下
矢島 つね 神川村字久保林
山邊かねじ 同 字上堀
山邊 まさ 同 字下堀
中村みどり 同 字黒坪
上林かのえ 同 字久保林
西澤あさの 同 字久保林
宮下 一江 同 字大屋
金井はつ代 同 字岩下
加藤 一江 南佐久郡海瀬村
教 師
山本 鼎 村由桂次
山崎省三 松村鼎介
西川喜代 柴田てい
顧 問
吉田白嶺
理 事
金井 正 山越修藏
三越での展覽會は、想ふに分にすぎた成功であつた。
三日間の展覽會であつたが、二日目の午後には既に目ぼしい物は一個も賣れ殘つて居なかつた。最後まで殘つたものは重に一個十五錢の小さな白樺卷で、即ち左のやうな成蹟を示したのである。
陳列品總數……………………………………一一五三點
賣約品總數………………………………………九八八點
豫約品總數………………‥……………………三六四點
右の好成績が、すべて作品の實力を語るものだとは勿論思はない。三越が本館六階を提供してくれた事が第一の理由とならうし、事業の性質が智識階級の興味と同情とを惹いた事が次の理由となるであらう。が、とにかく作れたものが賣れたのであるから、産業美術の二大要點に及第したわけである。
うれしいのは、彼れ等が其悦びのうちで、作品の訂正す可き點を屡々僚友と語り合つて居た事である。
教師連は勿論、しきりに沈思默考した事だ。歡樂極つてか其他の心理でか、あの景氣のいゝ雜閙のなかで、一脈の哀感が心を掠めたのを知る者は、多分私ばかりではあるまい。自分の製作で屡々經驗するやうに、畫が完成されようとする時分に、其畫がすつかり厭になる。つまり、それは表現し終つたものに對して批評的に意匠なり、技工なり、趣味なり、思想なりが群り起る場合の感傷であるが――同じやうな感傷に、あの時もちよつとつかまつたのであつた。
そして、しつかりと心に命じた事だ。
「今回の製作品は充分獨創的であるとは云へない、趣味も意匠も用材も露西亞の農民美術から學ぶ處が多かつた――第三年第四年第五年ともなれば、敢て日本農民美術と稱へた其意志を明かに體現し得るであらう」
と、展覽會趣意書に告白したが、それは第一年から現さねば、いや現れねばならぬ事だつた。見ろ、――兒童の自由畫を、お手本を取つてしまへばすぐとあのやうに自分をむき出すではないか。
工夫はいらない――ひたむきに、あの端嚴微妙な直接法の世界に探り入れ!! と、――吾々を奬勵鼓舞したものは、賣約と豫約の好景況には止らなかつた。招待日であつたか、家族を伴つた、苦味走った相貌の老偉丈夫が、予は君の此建業に深く贊意を表する者なり、とて一封の金子を私に授けて去つた事である。其封筒には左のやうな文字が記されてあつた。
一日も早く全國に普及をいのる。
左の條件に於て大贊成
一 美術思想の普及
二 一國大擧副業的生産の普及
三 擧國惇風肅清の勃興、
其老丈夫といふは田中智學氏であつた。
同じ日に、私は農商務省の書記官石黒氏を迎接した。石黒氏は素材に關していろいろと智慧をかす事を約束してくれた。そして『露國ノ手工業』『獨逸二於ケル諸種ノ小産業』『獨逸二於ケル農民工藝卜教育』といふ三册の本をくれた。私は其後此本を非常なる興味を有つて通讀した。石黒氏の紹介で、二日目の朝農商務省副業課の人が作品を撮影に來た事も記念す可き事であつた。
二日目にはも一とつ、吾々の心を躍らした事があつた。それは或理學博士の夫人から、近く海邊に建てらるゝ小別莊のサロンを農民美術で作つてくれとの注文である。此注文は其後更に徹底して建築全體の事に及んだが、私は此オーケストラをうまくやり終せ度いと思つて居る。
先頃、リーチ氏の告別展覽會を、練習所のリーダーである山崎君が見て來て深く感嘆して居た。其翌日、私も見にいつて、戀敵にでも向ふやうに胸を躍らしながら、あの獨創的な家具に眺め入つた。妬しかつたのはあの雜巾を活かした藝術心の冴えである――併しあすこを立去る時には、私は、自分の思想にチヤームされながら、こう默語した。「リーチの家具はお寺の道具に契機して居る、――吾々は一度人の手に技工化されたものに據らずに、自然物の組織からフオルムを把んで見よう――ロダンは空に枝を擴げた街道の並木に、ゴシツク建築の妙諦を味解したといふではないか。」
展覽會も目出度終つて、私は久ぶりに二日ばかりのうのうと寢そべつて暮した。
六月の三日に三越から賣上げを渡し度いといつて來たので、受取りに出かけた。
私の前に、百圓札が五枚おかれた其上に十圓札が九枚重つた。更に銅貨が八錢添へられた。
私が其お金を懷に收める時の心待ちを想像してもらひ度い――私は、唯恍惚としてしまつたとでも云はうか……。
歸途、私は須田町までゆつくりと歩いた。こんな事を考へながら。
「二十人が百日間で教習した作物の十分の九が賣れて五百九十圓と八錢になつた――處で、一村に二十人農民美術家が出來るとすると、長野縣下だけで一萬人以上になる、一萬人の冬期農閑百日間の生産は一體いくらになるか……やはり十分の九の賣り上げにして三十萬圓近くになるわけだ――もし全國の冬季農閑を有する地方に普及されるとしたら……どうもこれは興味ある國富だ、――廣大な需用面を控へた日本、廣汎な生産面を成し得る農民美術、俺達は勇躍して『農民美術學校』を組織すべしだ。」
×
此事業は、經濟的效果を意味する農家の副業と、藝術趣味の普及を意味する民衆文化とに關係し、農商務省と文部省とに跨つて居る。其故に、思想家と藝術家の兩方に注意を惹ひた。
思想家は創造的勞働といふ點と、副業的價値に由る普及性を見て取つて聲援してくれるし、藝術家は原始的な意匠と技工を愛する情を以て、農民美術といふ名稱には心を止めても、それが現代に産業的使命を帶びて建業される事には興味を有たない人が多い、むしろ左樣な、庶民的な藝術の發生を悦ばない感情が示された。
内田魯庵氏は「農民美術の生命の素朴は、教育されゝば失はれてしまふ――夫故農民美術には進歩は望まれない(進歩は即ち破滅だから)」
と云はれた。
山下新太郎氏は、「農民藝術は現代の立場から見れば時代錯誤である。――農民美術の意味を嚴密に考へれば、考へる程時代は古くなる。臺灣の土人とかアフリカの土人とかを除いたなら殆ど近代には無いといへる。――多少にても文明國といふ可きものには無いのである」
と云はれた。
岡田三郎氏は「コマコマしたものを澤山作るよりも只一個でもよいがら骨を折つた製作を私は希望して居る。――一枚の織物を農閑の半年を費してたんねんに拵へるといふやうな事を私は希望する」
と云はれた。
塚本靖氏は、「露西亞の農民の手工品は日々に衰へて行く傾向ではあるが、まだまだ都會を距ること遠き村落等も甚だ多い事であるから、農民美術の命脈が此處十年二十年位で絶ゆる譯のものでない」
と云はれた。
是れ等の言葉が、私にうなづけない事はない。けれども同じ言葉は、實は獨り農民美術に止まらず、一切の美術に加へられる筈だ。――そこですべての美術的價値が歴史を遡る程良いときまると、吾々の藝術心は懷古の一路に生きるより仕方なくなるわけだ。
古い時代の農民美術以外に、農民美術の價値は無いものときまると、人間の個性も獨創力も、無用の長物になるわけだ。
昔の、簡單な道具と材料で出來た實直な手藝品を愛情する事に於て、私はむしろ人に率先しようとする者だ、けれども一方にかう考へる。
「昔の農民に、美術が生れたと同じ理由で今日の農民にも、美術が生れ得るはずだ。それは昔の世に戀も詩もあつたやうに、樣は變れど今日の世に、それが滅びる處ではなくてますます賑かに表現されて居るのと同じ事なのだ。
今の人に昔の通りのものは出來まいし、造らうとも思はないがいゝ。
今日一切の美術が墮落して居るのは、要するに模擬を習慣とした結果である。
で、私は各人が身邊觸目の自然物に、意匠、圖案、技工のすべてを契機する『直接法』によつて今日の倦怠を是正しようと考へたのである。自由畫教育の要點も其處であるし、農民美術製作上の唯一の方針も其處にある。
「それにしては、先頃君が列べて見せたものは、まるで、ロシアン、ペザント、アート、イン、ジヤパンじやないか、と冷かされると、一言もない。まことに然るは、性急で潔癖の足りない私の短所なんだ。
魯庵氏は、「農民藝術の開拓は一歩を誤ると所謂横濱美術のやうなイヤなものになる恐れがある――即ち西洋の農民藝術と日本の農民藝術との見にくい混血となる疑念がありはせぬか、都會藝術とも農民藝術ともつかない變挺な中途半端なイヤなものになりはすまい乎、――之が疑念である。」
と云はれた。
まつたく、そんな物になりさうだつたら一も二もなく亡してしまはなければならない。併し、今日の農民美術に西洋趣味を全く排斥する事はむしろ不自然だ。都會藝術の影響が微塵も現れないといふ事はあり得まい。無論魯庵氏もさう考へて居られるだらうが、横濱美術の醜悪な點が、趣味の混合にあるのではなくて、表現の一切がいやらしいのである。
吾々の農民美術が其處まで杞憂されては情けない。
山下氏は「完全な道具を用ひた挽物細工では農民美術ではない」
と、云はれた。
幹材を挽物にする事まで手でやつたものが、味ひのあるのは事實だ。併し私の企劃した農民美術は要するに産業美術であつて、利得を伴つた娯しい創造的勞働を以て冬季農閑を填めようといふのであるから、素材をとつて同型の箱や木鉢を數多く作るやうな仕事は、指物挽物の職人に任せて、其實材を塗つたり描いたり彫つたりして美術的に飾る事だけを農民諸君の副業にし度い考へよりである。
吾々は、産業的使命を目ざすと共に、其製作品を安値に公衆に提供して所謂平凡美術を徐々に高めてゆかうといふ野心があるのであれば、實材の製作は、むしろ段々大規模な器械力によらうとさへ思ふのである。
丈夫な箱を造る事、素直なくり物を造る事などは、とても短期の教習のよくする處でない。
「本統の趣味豐かな農民美術は却つて農夫自身の手になつたものでなく、矢張農家の日用具を造る職業的の人々の手に造つたものが多いやうに思ふ」
と、大野隆徳氏が云はれたが、所謂精練された技工美は副業的作品には容易に望み難いものとせねばならない。
慾が深いやうだが、澤山の農民美術家が生存する時期が來たら、多分農事を副業とするやうな專門的な農民美術家もあちこちに現れる事であらうし、其人々の手によつて數ヶ月を費して仕上られるやうな珍重すべき農民美術も作られるであらう、と私は期待する。
要するに吾が農民美術當面の使命は藝術的であると共に産業的であり、『安値』のうちに清新な美術趣味を植えつけてゆこうとするものであらう。
想ふに、天上のものを地上に引きおろさうとするのが私の蟲で、惡の芽が、どの人間にも植ゑつけられてあるやうに、どの人間にも美の享樂と其表現的機智が備つて居るとするのが私の理論で、其理論が、どれ程の深さに現されるものかを知らうとするのが私のパツシヨンだ。
そこで、私のする事はすべてが辻説法だ。(九年七月廿三日)
底本:『美術家の欠伸』アルス
大正10年2月26日
