創業記事端書
世の中をわたりくらべて今ぞ知る
阿波の鳴門は浪風ぞ無き
予は第二の
明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、
明治四十三年八月
別
八十一老
関牧塲創業記事
八十一老 白里 関寛誌す
(一)
明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄
三十四年一月、又一は釧路を経て
別
同年五月、斗満原野三百万坪余の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農学校卒業す。
別に来る。
同年十月、
牛八頭 馬廿一頭。
明治三十五年三月十七日、片山八重藏夫婦
号
別
廿七日、
七月一日、又一
八月十日、
細川氏にて茶を饗せられて径路を通行し、「トメルベシベイ」にて
最も
平坦地を通り過ぐるの処に密林あり、湿地あり、小川あり。其
小屋は
此際は殊に小虫多く、眼口鼻に入る為めに、畑に
十二日、七時より放牧塲(ノフノヤウシ)即ち昨日見る処に至りて馬匹を観んと欲し、彌吾吉王藏同行せり。![]()
北宝両
北宝は無事に群中にありて大に安堵せり。然るに
昨夜熊害は仔馬一頭を
熊は時々馬匹に害を与うるを以て、
十七日、又一帰塲せり。
別
別
十八日、餘作と共に寛は発足す。又一、八重藏は、放牧塲迄見送りくれたり。放牧の牛馬は、予を慕うが如きを覚えたり。
十一月七日、又一札幌に向うて発す。此れ三十六年志願兵として一ケ年間騎兵に服役する為めなり。
* *
* *
本年は樽川の畑は風損霜害にて収穫
馬匹五十二頭
牛七頭
ソバ、
(二)
明治三十六年
五月廿六日、寛は王藏に送られて牧塲に着す。
漸く小屋に帰り、火辺にて煙の為に小虫の害を脱するを得たり。実に尚一時間も強て耐忍する時は、呼吸困難と、視る事能わざるに至らん乎。甞て聞く処あり、小虫の群集に害せられて危険に陥る事ありと。予は其実際に
かかる着用にて、炎熱の日に畑に出でたるには、炎熱と厚着の為めに全身は暑さを増すのみならず、汗出でて厚く着重ねたる木綿
予は初めは和服にて蕨採りに出でし際に、小虫を耐忍する事
小虫を防ぐの着類は揃いて、皮膚及び眼胞の腫れも減じたり。依て蕨採りとして出掛て、
此際は蕨のみならず、
当地の蕨は太さ
蕨蓬を採るの時は、樹皮の籠を用いたるも、然れども籠は歩行するにぶらぶらとして邪魔となり、或は小虫を払うにも不便なるを以て、更に木綿袋に換えたり。此れにて小虫を払うも手軽くなりて、大に便利となりて、蕨蓬を採るの量多きを喜びつつ、日々出でて採る事とせり。又小虫を払う事にも慣れて、
六月二十七日、土人イカイラン熊の子二頭を馬の
此際には豆類
七月三日、一奇遇あり。一官吏来り泊す。
七日、三角測量吏吉村氏は
別山に三角台を
此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、
此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然に
八月廿七日、初雪あり。
九月十六日、堀内組病者診察として
十七日、雨ふるも強て発して愛冠に向う。四里間に家無きも、山間或は原野にして、シオポロ川の源に出で、川畔に
廿九日、寛は札幌に向うて発す。
牛十頭
馬九十五頭
畑地開墾四町
牧草地二十町
(三)
三十七年一月一日。
寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。
二月七日、又一帰塲す。
三月一日、瑞
北宝を
五月廿八日、寛は着塲せり。
六月十日、又一は札幌に向うて発す。………
十二日、朝アイ死去せり。
老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、
一、葬式は决して此地にて執行すべからず。牧塲に於て、
一、死体は焼きて能く骨を拾い、牧塲に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に
一、
五郎は常に看護を怠らず、最も
然るに近隣及び知人は集りて五郎を助け、東京へも電信を発し、マスキはキク、ヒデを同行にて来り、厚く葬儀を営み、且つ遺言により骨は最も能く拾いて集め箱に入れ置きたるを、予は
亡き
秋の夜の、
廿九日、餘作来塲して予を慰む。
寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、
然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く
八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。
三日、馬、熊害にかかる。
十五日、又一動員令下るの報あり。
二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。
二十九日、寛は又一に面語す。
十月二日、寛は帰塲す。
寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱咤して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、
四日、斃馬一頭あり。
五日、
今日に至り病馬無く、且つ一般の順序を得るを喜びて、
此れより層一層の勤倹を守り、一身を苦境に置くに勇進せり。
十九日、瑞
号
十二月二十日、寛は七福の夢あり。
牛十四頭
馬六十七頭 今年斃馬五十六頭なり
(四)
明治三十八年
一月一日
昨三十七年は
寛は
十日、雪深くして歩行して河に至る事能わざるを以て、冷水灌漑に換うるに雪中に転ぶ。
三月、寛は種痘の為めに諸方に行く。
六月、寛は
此際は寛は
七月、寛は海水浴として釧路に向う。九日に帰塲す。
廿八日、又一出征の報あり。
此際に
然るに人生の複雑なる、安危交錯して、吾人の家庭と社会とに
才
明治三十八年 積善社発起 七十六老
此際亦胃痛あり。
八日、又一出征の報あり。依て餅をつきて祝う。
創世記を読み、創業を銘記せり。
十月
十五日、寛は足寄帯広方面に出で、二宮農塲に滞留。
十一月、寛は六日帰塲す。
此際
(五)
明治三十九年一月一日
例により斗満川の氷を破り、
十九日、雪深くして川に行く事難し。依て雪中に転んで灌漑に代う。
二十日、瑞
と北宝とが
三月十日、
赤飯を製して一同に祝せり。
三十日、川氷解け初めたり。
四月四日より日々南方を眺め、或はニタトロマップ迄行きて、又一が帰るを待つ。
十三日、後二時、又一無事帰塲す。
底本:「命の洗濯」警醒社書店
1912(明治45)年3月12日初版発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は、、大振りにつくっています。
※「恥」と「耻」の混在は、底本通りです。
元ファイルの入力:小林繁雄
元ファイルの校正:土屋隆
●表記について
「くの字点」は「/\」で表しました。
字下げは削除しました。
※[#「冫+咸」]は「減」に置き換えました。
※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]は、「汽」に置き換えました。
※[#「口+它」、第3水準1-14-88]は、「咤」に置き換えました。
このファイルは、青空文庫のファイルを利用して作りました。――栽培生活・田舎の貸し本屋さん
元ファイルにある、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、底本どおり「ケ」に戻しました。
