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私は最近約三ケ月にわたる旅行を終えて疎開先の片田舎に帰ったところ、多数の書状や寄贈書などが机上に積まれていた。その中から、上掲の表題をつけたノーマン博士の著書を見出したとき、何とも云えない懐かしい快感を味わった。旅装を解くや否や何よりも先きに之を読み始めた。しかし一週間ばかりでこの書を携えて再び旅行に出で、旅中に之を熟読した。いま読後の感想を述べるに当って、この著書をまだ読まれない人々の為めに、先ず安藤昌益とは如何なる人物であるかについて簡単に述べておく必要があろう。
昌益はわが日本が生んだ思想界の偉人である。彼の著書に因縁の深い狩野亨吉博士の言葉を借りていえば、「わが日本が世界的に誇り得る唯一の独創的思想家」であろう。彼は今から二百余年前の徳川時代中期に久保田(今の秋田)で産声をあげた。そして彼が成長した頃の人々は、神、儒、仏の三教を以て殆んど思想の絶対的範疇であるかの如くに盲信していた時代に、昌益は漢学を無上に有難がる当時の学者の愚を指摘し、仏教や神道の欠点を挙げ、農業の甚だ尊ぶべき所以を主張し、禁酒禁煙を力説し、一夫一婦を正しき性関係であるとなし、封建制度の搾取機構を痛罵し、
彼はまた全国に部下を配して今の謂わゆる地下運動をやったと彼の著書によって推測されるのに、明治三十二年(一八九九)頃狩野博士によって発見された前記の著書以外に、これぞという手係りがない。ところでその百巻九十二冊の大著が束京帝大図書館の有に帰すると間もなく関東大震災で大半焼失して了った。そこで筆者はその当時に於て出来るだけの材料を蒐集し、狩野博士の意見をも参酌して、昌益の思想的内容を昭和五年(一九三〇)に『安藤昌益と自然真営道』という著書にまとめて世に紹介した。軍閥花やかなりし頃のこととて、いろいろの困難を伴う仕事で苦労した関係上、今ノーマン博士の著書に接して何となく懐かしく、種々の回想が浮びあがるので、万感交交到るわけであろう。
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『忘れられた思想家』の著者ノーマン博士は歴史学を専攻された豊富な知識の持主である。カナダのトロント大学、ケンブリッジ大学等の業を卒えてからハーヴァード大学で、日本および中国問題を研究されたので、日本文を解し、漢文を読み、本書の英文版“Ando
Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism”を見ると、ノーマン博士は英文に於てもすぐれた文章家で、叙述簡明、行文清楚、美くしい詩趣味さえ湛えられている。特に第七章の名文を繰返して味わった。
本書の上巻第三章の始めに歴史家の任務は歴史を観察し、考察し、分析し、叙述し、できれば説明すべきものであり、これだけの仕事でも「歴史家が全力をふり絞ってなお掴みどころのないものであって見れば、道徳的判断などは幸いに説教師や政治家や哲学者などに委せておいてよかろう」とノーマン博士が述べておられる。この抱負と、書中ににじみ出ている豊富な史的知識と博引旁証とで一層読者の興味をそそり、先きへ先きへと読みたくなるのは筆者ばかりではあるまい。筆者は学生のころ、幕末から明治へかけて日本へ旅行した外人の書いたもので外国で出版されたものを好んで読んだものであるが、彼等の日本批判が当を得ているものの少ないのに驚いたものだ。ところが世界史は勿論、日本歴史に精通しておられるノーマン博士のものされたもので、先きには『日本に於ける兵士と農民』を読み、今また昌益に関する好著に接して、その批判が穏健であり、同情に富み、溢れるような歴史学の知識と多数の引例とを以て昌益を比較し叙述されたのを読むに及んで、徳川時代を背景とする昌益を甚だ深く理解されているのに感心する。まことに歴史家の任務をそのまま履行されているのに感歎を禁じ得ない。それに筆者のような浅学者には人名字書によって名前だけを知るにも困難であるようなディドロ、ウィンスタンリ等々の主張を挙げて昌益と比較叙述されたところに特種な興味をそそられるばかりでなく、これは多分他の著者には容易に企てられない仕事であろうとさえ思われるので、この点ノーマン博士に対して感謝の念すら起る。
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ここで少しくわき道して、昌益の発見者狩野亨吉博士について一言しておきたい。狩野博士は東京帝大の理科で数学と天文学を研究された。理科を卒業されてから、更らに、文科に転じて哲学を研究されたが、「哲学は名のみいかめしく且つ奥深そうに見えて、而かもその内容の何ぞ貧弱なるや」と嘆息され、終生科学精神で貫かれた篤学者である。狩野博士はまた英文に堪能で、日本語でやられる大学の講義を聞きながら、それを英文で筆記された。その方が日本文で書くより筆記が早くて却って楽であったとさえ云っておられた。狩野博士の図書の蒐集癖は学生のころからで、これは科学ばかりでなく、あらゆる部門の書籍を集め且つ多読されたので、事実和漢洋の学に精通しておられた。それ故、種々の専門家で教を乞うものがあると、それぞれに必要な図書を撰定貸与してその完成を助けられた。実に「書誌学」に於ては第一人者と認められていながら、自分で文を綴って発表することなどは好まれなかった。「知る者は言わず」の類であろうか。狩野博士が古文書を調べておられる間に、本多利明、安島直円、蘆川魯等々、多数の人物の事跡を発見されたことは有名であるが、その伝記を書くことなどは、発表に必要な材料を添えて、必らずそれぞれの専門家に委ねられた。けれども常に十数万巻の堆書裡に在って独自の学究生活を送られた。その上、天下の名士や曾ての教え子で学士博士となったものなどが絶えず出入していて、意見を請う者には自分の知れるかぎりは答えられたが、術学的の態度は微塵もなかった。だが底知れぬ博士の学識に啓発されるところが多いので、博士の家庭を「狩野大学」と呼ぶものさえあった。博士の死後その頭脳は東大医学部に於て偉人解剖に附された。
筆者は狩野博士の家庭を自分の家の如くに出入すること約三十年、聴くべきは聴き、論ずべきは論じ、反駁すべきは遠慮なく反駁を試みるという次第で、狩野博士の門下に集まるものの中では、恐らく唯一の野性的存在であったと思う。ところがそれが却って狩野博士の気に入ったらしく、常に特別の待遇をうけていた。大正十二年(一九二三)の大震災で筆者は自分の蔵書と共に家財一切を焼失したので、暫らく狩野博士の家庭に寄寓し、博士と一ツ寝室に起臥することになったので、帝大で焼けた『自然真営道』や、その著者安藤昌益のことについて朝に夕に狩野博士から聞くところをボツボツと書き取っていた。博士の博覧強記は世の定評であり、『自然真営道』の稿中の裏張から
『自然真営道』の稿本がまだ全部狩野博士の書斎に在った時のことだが、吉野作造博士が是非それを見たいというので、ある日狩野博士に紹介して「門外不出」のこの珍書を吉野博士に見せたのが、後年東京帝大に買上げられる因縁となったのであるが、その吉野博士が、中央公論社の依嘱をうけて、筆者に昌益に関する著書の執筆を頻りにすすめられるので、支那漫遊の旅費をくれるという約束で、『安藤昌益と自然真営道』をまとめたのだが、いわゆる危険な文句を削除し、また削除して、遂に三回まで書き直したが、それでも中央公論社では出版を躊躇していた。もう少し危い文句を除いて岩波書店で出版して見ようと岩波茂雄氏から相談があった矢先、その頃上智大学を出て出版業を始めたばかりの木星社の主人公が
筆者が『自然真営道』稿本第一巻序の無点文を解読して狩野博士に感心され、また昌益の書判を狩野博士が「鶴間良竜」と判読されたのを、筆者が「確竜良中」と判読したことなどが狩野博士の信用を得たらしく、遂に昌益に関する研究一切を委ねられ、昌益独特の漢字解釈の原稿をまとめるようにすすめられた。然し戦争その他の事件続出で研究が遅々として進まないでいたところへ、図らずもノーマン博士の如き最適任者によって昌益を世界的に紹介して頂くことになったことは、何としても喜びに堪えない。唯最も喜んで頂けるはずの狩野博士が他界されたので、之を博士にお目にかけられないのが一番淋しい。
狩野博士は十九歳にして『情象論』“An Inquiry into the Phenomena of the Universe from the
Social Point of View”という名文を漢文で書いておられるが、これは狩野博士の父君良知先生の薫陶によるのであろうと思うが、何せよかかる学殖と研究心の深い博士に安藤昌益が見出されたのは幸いであったと思う。その博士が之を「門外不出」とされた理由は他にもあろうが、「農民が真に自覚したら今の社会組織は全く顛倒するであろう」と時々云われた言葉の中に、用心深く秘蔵された博士の気持が読みとられると思う。
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昌益の時代観の中でノーマン博士が云われているように、徳川中期以後に於て浪人や貧弱な蘭学の私塾や牢獄につながれていたものが新知識を求めて苦労したことは気の毒であった。一方ではまた、温和で孜々として働く農民に対する圧迫と誅求とがひどかったことは想像外であったようである。筆者の疎開先の隣村に住んでいる八十八歳の老人の話によると、幕末――と云ってもこの老人が四、五歳の時のことだが、役人がズカズカと家の中へ入って来て、いきなり釜の蓋を取り、菜ッ葉の中に数える程しかない米粒を見て多すぎると云って叱られた恐ろしさを今でも覚えていると云っている。農民が自ら耕したものさえ充分食べられず、殆ど不耕貪食者に奪いとられたことは文献に多く残されている。権藤成卿の研究によれば、戦国時代には誅求機関が充分その機能を発揮することが出来なかった為めに農民の生活が比較的楽であったと云っていたが、或はそうであったかと思われる。
昌益時代には科学が発達していなかったから、昌益が木火土金水の相生相克などで人間生活を説明しようとしたことは気の毒であるが、しかし食物の火熱による変化、薪炭の燃焼、食物の消化等を観察して、人間生活と他の自然現象との間に密接な連絡循環を続けつつ生命を維持しているのだと説明しようとした科学的意味だけは汲み取ってやらなければなるまい。自然に関する新知識を求めて止まなかった昌益に、今の理学や化学の知識を学ばせたかった。
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刊本『自然真営道』三巻の発見に関して筆者の説明が不充分であったためか、ノーマン博士に誤解させた点のあることは、まことにすまなかったと思う。お詫びかたがた茲にハッキリと訂正しておきたい。
刊本『自然真営道』は今までに二部発見されている。一部は京都で、他の一部は東京であった。
筆者が『安藤昌益と自然真営道』を公表した翌年、即ち昭和六年(一九三一)二月、京都の大屋徳城氏が某書庫の図書の整理をしていた際に、偶然にも刊本『自然真営道』一部三巻を発見したと狩野亨吉博士に報らせて来た。そこで筆者は狩野博士に代って同年六月わざわざ京都まで実見に行った。これは後に狩野博士によって東京で手に入れられたものと全く同じものである。京都の発見者大屋徳城氏は、今は故人になられたが、九州柳川の真宗のお寺に生れた人であった。風変りでお寺が嫌いであった為めに親に勘当され、京都に出て来て勉強したと自ら語っておられた。篤学者で仏教経典の刊行史に詳しく、立派な著書もある。筆者の会った頃は比叡山や高野山大学の講師をしているとのことであった。(氏の弟さんは工学博士大屋霊城氏で今もなお健在であろう。)
筆者は大屋徳城氏に刊本の出所を尋ねたが、「所有者がその価値を知らないので、そっと借りて来たのだから今はその出所を申上げられない」とのことであった。後に「それは多分南禅寺の書庫であろう」と他の人から聞かされたが、確かなことは筆者に分らない。
次に、昭和七年(一九三二)四月狩野博士の手に入った刊本『自然真営道』三巻は、甲州の古本屋が他の古書籍と共に東京の古本市へ持って来たものである。持って来た当人は大した価値あるものとは知らなかったのだが、文行堂書店の主人公が之を認めて比較的高値でせりおとし、それを狩野博士に渡したものである。今筆者の手許にあるのがそれである。
そこで面白い想像が浮んで来る。大体東北の田舎に住んでいたと思われる昌益の著書が京都で出版されて京都に幾人かの読者があり、交通の可成り不便であった甲州にも愛読者があったということは興味あることと思う。
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『統道真伝』の巻数順序は、(1)原本の綴目の記号に徴するも、(2)第一巻の
統道真伝第一巻 糺聖失
統道真伝第二巻 糺仏失
統道真伝第三巻 人倫巻
統道真伝第四巻 禽獣巻
統道真伝第五巻 万国巻
とすべきである。これは狩野博士も確認されたことであり、『統道真伝』そのものにも上掲の如き証拠があるのだから、右のように訂正しておきたい。
筆者が『安藤昌益と自然真営道』を刊行したので篤学家たちの注意を惹き、安藤昌益につきていろいろの批判が行われたが、また一方では種々の巷説を聞いたが殆ど悉く根拠のないものであった。例えば宮崎滔天氏のところに昌益に関する重要な書類が保存されているとか、B氏のところから昌益の日記が出たとか、その外三四のまことしやかな噂の出所を実際に調べた結果、いずれも浮説に過ぎないものであることが分った。唯前掲の刊本『自然真営道』三巻二部の発見と、昌益が弟子たちに文字を説明するのに用いた『韻鏡律正』(写本)の発見とが確実なものであった。後者は歴史家中道等氏が発見して筆者に恵贈されたものである。
また立命館大学の奈良本辰也教授が三浦周行博士の書斎で発見されたという写本『統道真伝』五巻は今筆者の手許にある原本を京都大学で筆写させたものであることは、その奥書によって明かである。これは京都大学で原本を筆写したいからと狩野博士宛に借用を申込んで来た当時は、丁度筆者がそれを使用していたのであるが、仕事を一時中止して京都大学へ送ったのが昭和四年十二月であった。三浦周行博士はこの時の筆写本を京都大学から借りて来て、そのまま自分の書斎に置かれたのであろう。
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昌益の高弟神山仙庵は名を
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大著『自然真営道』稿本第十一巻の表紙裏に貼りつけてあった昌益あての書翰断片で、
その文面に
「……先此度は御延引可被遊候、又折も節も可有御座候、既に拙者始壱両の金子も可差上存入も無御座候所、時節来り候得は五百両も差上可申心に相成申候、如此又時節来候はば出銀可被致仁出来中間敷物にも無……」云々(句読は筆者挿入)
と書いてある所から、筆者は、これは或る運動資金の調達に関することであろうと想像したのに対し、ノーマン博士は之と異なる穏かな意見を抱いておいでになる。これは今のところどちらとも決められない。「兵を語らず、争いを好まず」と平和の使徒とも思われる昌益が倦まず撓まず諄々として農民や篤志家たちに自然真営道を説いてまわりつつ一生を終ったであろうとも思われるが、しかし弟子たちにして見れば、殊に若いものなどは早く理想を実現したいと
洛陽知己皆為鬼。 洛陽の知己皆鬼となる。
南嶼俘囚独竊生。 南嶼の俘囚独り生を
生死何疑天附与。 生死何ぞ疑わむ天の附与するところ。
願留魂魄護皇城。 願くは魂魄を留めて皇城を護らむ。
と歌っているのでも察しられるが、「私学校」の生徒たちにせまられて、心ならずも謂わゆる朝敵の方へまわった。また徳川慶喜公は勤王の臣であったが、幕吏の要するところとなって朝敵となった例もある。「兵を語らず、争いを好まざる」昌益も、或いは之に似たような
(1) 昌益が唯自説を有志に説くだけであったのならば、何故、北海道の松前から、八戸、須賀川、江戸、京都、大阪、長崎あたりまでその弟子たちを配置したか。
(2) 昌益の弟子高橋大和守は代々大和守藤原正久の名を襲いでいた。八戸侯南部子爵家の執事をしておられた高橋家に伝わった『白山縁起記』の中に、初代藤原正久も三代藤原正久も、それぞれ伝記が載っているのに、二代藤原正久だけが「
(3) 享保七年頃から八戸藩で、逃亡者、追放者、自害者の多くなったことは、この前後になかったことで、宝暦三年までに四十五、六名に及んでいる。享保七年は昌益の推定年齢二十九歳で、この頃「尊からず賤しからざる温容」の若い昌益が熱血をそそいで自然真営道を唱道していたであろうと想像される。多数の逃亡者の中に
(4) 正徳(元年は一七一)頃から、あちらにもこちらにも百姓一揆が起りはじめた。以後ますます多くなってゆく社会相を、絶えず旅行していたらしい昌益や弟子たちが感慨無量で之を眺めていた心持ちが思いやられる。仮りに一揆の例を拾ってみると、
正徳元年(一七一一)に越後村上領一揆。安房北条一揆。周防一揆。
同二年(一七一二)に加賀大聖寺一揆。
同四年(一七一四)の武蔵小金井一揆。
享保二年(一七一七)伯耆・因幡一揆。備後一揆。この年将軍吉宗は例の有名な隅田川放鷹をやっている。
同三年(一七一八)備後一揆。
同四年、周防岩国一揆。
同五年、紀伊一揆。この年三月廿七日吉宗葛西に於て放鷹。帰途江戸大火災に遇って困難して江戸城に帰った。翌六年目安箱を設けた。
同七年、但馬生野一揆。信濃上伊那一揆。越後東頸城一揆。この年から諸侯に臨時課税し、室鳩巣がその不可を論じた。同十一年(一七二六)三月吉宗小金原に大がかりな狩を催した。
同十二年(一七二七)美作津山領一揆。
同十四年(一七二九)岩代伊達郡・信夫郡一揆。
同十六年(一七三一)陸中鬼柳村一揆。飛騨高山一揆。
同十七年、伊予一揆。出雲一揆。
同十八年、飛騨高山、丹後加佐郡、江戸、伯耆の坪上山、以上四ケ所に一揆があった。
同十九年、伯耆、安芸、肥後に一揆。
元文三年(一七三八)磐城岩手一揆。但馬朝来郡一揆。
同四年、但馬、因幡、美作勝北郡等に一揆。
寛保二年(一七四二)伊予砥部一揆。肥前東松浦一揆。
延享三年(一七四六)磐城一揆。前年九月吉宗征夷大将軍職を家重に譲る。時に吉宗六十二歳、家重三十五歳。
同四年、羽前一揆。伊予大洲一揆。
寛延二年(一七四九)播州姫路一揆。岩代安積郡一揆。佐渡一揆。岩代金曲一揆。岩代伊達郡桑折 一揆。甲斐一揆。
同三年、讃岐丸亀一揆。伊予大洲一揆。
宝暦元年(一七五一)土佐佐川一揆。この年六月二十日吉宗六十八歳にして卒す。家重四十一歳。
同三年、備後福山領一揆。
同四年、筑後久留米一揆。伊予西条一揆。美濃郡上郡一揆。大和十市郡一揆。
宝暦五年(一七五五、自然真営道の大著完成の年)、陸中一揆。羽後一揆。出雲広瀬一揆。和泉一揆。(以下略)
是等農民の決定的活動を、「兵を語らず争いを好まざる」昌益は別としても、多くの弟子達が唯口舌による宣伝だけで、果して之を冷静に傍観していたであろうか。
(5) 大著『自然真営道』や『統道真伝』を明治まで持伝えた江戸北千住の橋本律蔵は、この書籍が自家に蔵していることの露顕を恐れて近隣と交際せず、そのため「北千住の仙人」と綽名されていた。京都大学にいた内田銀蔵博士の縁戚であり、東京帝大の史料編纂掛にいた内田天正堂の生家である北千住の
以上のようなわけで、資金云々の書簡断片を問題外としても、何か一大事の起ったであろうことを想像するに難くない。筆者は寛延三年(一七五〇)、若しくは宝暦三年(一七五三)頃に昌益一味にとって何か重大事件が起ったのではあるまいかと推測したいのであるが、まだ之を断言するに足るほどの確実な資料を持合せているわけではない。しかし後世この間の消息が明かにされる時があろうかと思う。
徳川幕府が網の目のように全国に配置した「隠密」などが昌益一味の存在を嗅ぎつけて、ひどい弾圧を加え、誰でも昌益や自然真営道の名を口にするさえ憚ったのが、割合い弘く(京都あたりから甲州の田舎に至るまで、否殆んど全国の要所々々の篤志家たちにまで)知られていた昌益の名を全く社会から葬り去った主要原因ではあるまいか。「神君家康」を「奴輩」と罵ったら、その一言だけでも当時は斬罪に処せられたに違いない。そう云う時代に於ける昌益の言論は今からは殆んど想像のできないほどの危険性があったであろう。かかる想像は今はこれ位にしておくが、筆者が『安藤昌益と自然真営道』をまとめた昭和年代でさえ思うように書いたり発表したりするのが困難であったから、静かな夜など独り昌益の
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平和を愛好し暴力を否定した徳川時代のガンジー翁昌益は、「若し自然直耕の道には治乱なきことを明らむる者之れあり、速かに軍学を止絶して、悉く刀剣、鉄砲、弓矢、凡て軍術の用具を亡滅せば軍兵大将の行列なく、止むことを得ずして自然の世に帰るべし」と云っている。然るに今日に至るもなお斯かる点は昌益時代より特別に進歩しているとも思われない。人間相互の信頼を高める教育方法も講じられず、益々武備に狂奔し、危険極まる爆弾を用意して睨み合っている現在の世相を昌益に見せたならば、彼は何と評するであろうか。人間の蒙昧性を考え直さなければならないと感じないであろうか。
昌益は常に世界万国と云い、万々人にして一人だと云った。然るに未だに世界全体が一種の封建的形体を取っている。民主主義などは名のみで、多くは軍国主義であり、弱肉強食主義であり、政治外交は欺瞞の競争場であり、愚民政策が行われ、搾取は税金の名で容赦なく行われている。宗教の乱用も未だに続けられている。天国や極楽の夢を種にした宗教が無智のものを更らに盲目にして自覚心を消磨させるために用いられている。何れも昌益時代と比べて、多少の差はあろうが、大した進歩発展を遂げていないようである。
ここまで書いて、イギリスの詩人サー・ウォーター・スコットが、友人の死骸を納めた棺が赤土の穴の中に降ろされた瞬間の感想を歌った短詩をフト想い出した。これは筆者の愛誦詩の一つである。
Earth
Earth walketh on the earth
Glistering like gold.
Earth goeth to the earth
Sooner then it wold.
Earth buildeth on the earth
Palaces and towers.
Earth sayeth to the earth
All shall be ours.
人類の闘争は、その根本を探れば、いずれも、'All shall be ours' の慾心から起るものであって見れば、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)から解脱せよと誡めた教訓も新たな意味で見直される。
農業は人間生活の根本をなしている。恐らくこれは人類のあらん限り永久にそうであろう。されば農民の啓蒙教育、不自然に膨張した都市の解体、国土の再分配、人間の相互信頼できる社会組織、不耕貪食者を造くるに過ぎない学校教育の根本的改善等々、いろいろの問題に逢着するが、それはここで言論すべき限りでないが、今日の重要な人口問題は昌益も気が付かなかったようである。然し彼の時代にも
最後に、昌益の主張を社会主義とか共産主義とか無政府主義とか、いろいろに取沙汰されていたが、これはそう簡単に片づけられないようだ。しかし
『自然真営道』稿本第七冊(仏書及韻学)の裏表紙から出た紙片には、前後の欠けた僅かに三行十数字の文末に「共産制」の文字が見えたが、
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ノーマン博士著『忘れられた思想家』を閲読して欧米の重農学派に関する豊富な記事によって訓えられるところも多かった。この好著の熟読を、世界国家の将来を思う人々に勧めたい。大窪愿二氏の訳文がのびのびした明晰なものであるのにも感心する。英文版も邦文版も広く読まれて多くの人々を啓発することであろう。それは昌益が事実上百年後に精神的再生を遂げたことにもなるであろう。とにかく「
(『思想』第318号、昭和25年12月。)
底本:『安藤昌益と自然真営道』勁草書房
昭和55年4月25日第6刷
